「いいよ」
含みを帯びた低音が響く。
それからちらりとこちらを見遣ったのは、自分も三浦の名を知らないことをからかっているような、そんな視線だった。
やけに心の内が騒がしく動いた。知ってはいけない秘密に触れてしまうような背徳感が、背中を走った。
その葛藤とは裏腹に、彼の唇はすんなりと開いてしまった。
「あきひと」
きょとんとしながら空音で呟く小春に、念を押すように、彼はもう一度紡いだ。
その、名前を。
「みうら、あきひと」
「あきひとくん」
おうむ返しをした小春の頭を満足そうに撫でてやると、彼はゆっくりと立ち上がった。
坂道の頂上で、夕日を背にした三浦が微笑む。
どうしてそんな顔をするのだと、榛名は途端に泣きたくなった。
眉を下げて愛おしいものを見つめるような、慈しむような、そんな眼差し。
とんだ勘違いをしてしまったと、そう思った。
三浦の眼差しは向けられているはずなのに、その焦点は自分自身ではないように思えた。
自分ではない、見えない誰かに注がれている、それは女の直感だった。
それでも。榛名は気づいてしまった。