「ふらついたまま前のめりになって、隣のレーンの選手と接触したんだ。片足踏まれて、骨折」


情けないよなあ、と彼は呟く、まるで他人事みたいに。


榛名は思い出していた。先日の上野の話だ。三浦の代走に選ばれた後輩が同じシチュエーションで負傷したことを。


「三浦くん、」

「足は、安静にしてればすぐ治ったんだ、でも、記憶はどうも厄介なもんだよ。復帰してから、スタートの前はその時のことが毎回浮かんでさ」


駄目だったんだよなあ、結局ーーそう言って、左の腿を軽く小突いた。


それから駅までの距離を、三浦にかける言葉を探しながら歩いていた。


でも結局は見つからなかった。


同じ状況に遭遇した後輩のことを知ったとき、そしてその原因を作ったのが自分だと知ったとき、彼は酷く傷ついただろう。


だけど、彼は走る、と言う。


『無理に走る必要があるの?』『頑張ってね』『きっと大丈夫だよ』そのどれもが的外れな気がした。


だから榛名はただ、彼の背中を見つめるしかなかった。


その背中が、榛名にも一つのことを思い起こさせていた。


"あの日"の窓を打つ雨が、残像のようにーー榛名は首を振った。


掻き消そうとすればするほど、その映像は鮮明になってゆく。


まだ赤子だった小春の泣き声、受話器を持つ母の神妙な調子も。


「やだ、」


頭を掻きむしる自分を覆い被さるように止める母の温もり。


「違う、」


それからあの、独特で穏やかだったはずの低音が耳を震わせたのだ。



『ハルちゃんの名前は形が取りにくいなあ、』