「そんなつもりじゃ、なかったの、」
それは僅かに耳に届いて。
「やめて、」
今度は何かを拒絶するように、はっきりとした口調で。
彼女の覚束無い両手が耳を塞いだ。
息を呑むのも躊躇うような静けさのなかで周りの音を遮ろうと、彼女はもがいていた。
そしてその挙動が、いよいよ本当に、非日常的な光景を作り出していることに気づいた。
「おい、大丈夫か」
無意識に足を踏み出して、急かされたようにその背中に近付いた。
「聞きたく、ない」
噛み合わない返事を辿るように彼女の側まで行くと、ソファに片手を預けてその顔を覗き込んだ。
まさか、と思った。
時が止まったような錯覚。
ふわりと香る懐かしい匂い。栗色で艶がある髪の毛。
遠い昔の出来事が、頭の中を駆け巡ってゆく。
有象無象なものたちに埋もれることなく、長い間息を潜めていた"彼女"との記憶。
嘘だろーー俺は頭を振ってみたけれど、決定的なものは、そこにあった。
泣きじゃくった彼女の右の目尻。
泣きぼくろが、ふたつ。