「でも、杏は俺がいなくても大丈夫そうだから、安心した」
「そんなことっ‼︎」
俺がいなくても、なんて言わないで…。
「悠ちゃんのこと、わたしもずっと大切な存在だよ‼︎ずっと傍にいてくれて、家族みたいで…。ううん、わたしの家族だよ…」
「俺も杏のこと、家族だと思ってるよ。これからも、妹だと思っていい?」
ジワジワと溢れてくる涙。そんなわたしに気付いた悠ちゃんは、親指で優しく拭ってくれて。
「杏、幸せになるんだよ。絶対、杏は幸せになれるから。そこは、お兄ちゃんが保証する」
わたし、幸せになれるのかな…。でも、悠ちゃんの笑顔が『大丈夫だよ』と、言ってくれてる気がする。
「悠ちゃんも、幸せに、なってね?」
「あぁ。って、泣くなよ。ったく…」
『杏は泣くと寝るクセがあんだから…』そんなことを言ってた気がする。
わたしは、泣くと疲れて寝てしまうクセがある。
よくそれで悠ちゃんには、『お前は子供みたいだな』って、いつも言われてた。
最後の最後まで、悠ちゃんに迷惑かけちゃったな…。
結婚するんだから、わたしもお兄ちゃん離れしなきゃいけないのかな…。
奥さんになる人に悪いもんね。奥さん、どんな人かなぁ?
気が合うといいなっ。でもきっと、悠ちゃんが選んだ人だもの。
ステキな人に違いないよねっ。
「あーぁ。何か二人、ええ感じやなぁ…。ええの?あーちゃん」
「あの二人、どういう関係だろうね?かなり親しそうだよねぇ」
「杏ちゃん、何回抱きつく気なんだろう…。ボクには抱きついてくれないのに…‼︎」
ヒマな時間帯で、良かったのかもしんねぇ。俺ら四人は、杏たちを食い入るように見つめていた。
あのオトコが来た時の、杏の安心感。心許した相手にしか見せない、雰囲気だったように見えた。
つか、いくつまで風呂入ってんだよ。高校生つったら、もう成長しきってんじゃねぇかよ。
15分が長ぇ…。つか、あと何分だよ。こいつらの言う通り、全然二人の関係が見えねぇ。
杏の表情がコロコロ変わる。泣いたり、笑ったり、驚いたり。終いにゃ、抱きついたり…。
全員、手が止まり杏を見てると、オトコが目を細め、大切なモノを扱うかのように、杏の髪を撫でた。
そして、ゆっくりと俺らのほうへ、視線を向けた。
ガン見してたから、バッチリ目が合うわけで…。
あー、すげぇカッコ悪りぃ…。
そんなことを知ってか知らずか、オトコは『碧都くん、ちょっとイイ?』なんて、涼しい顔で俺を手招きした。
なんで俺の名前知ってんだよ。杏が言った、んだよな…?
どうして俺の話になる?杏、お前は俺のこと、どう思ってる?
ソイツは誰だよ。すげぇ気になって、しょうがない。
杏を忘れようとしたけど、ダメなんだよ。杏じゃなきゃ…。
俺は、ゆっくりと杏に近付いた。
「杏、泣くと寝ちゃうんだよね。子供みたいでしょ?」
俺が傍に寄ると、杏じゃない声が俺を苛立たせた。
「そんな怖い顔しないでよ」
怖い顔なんか…してたか。その人は、俺を見ながら苦笑いした。
「杏を寝かせたいんだけど、どこかある?」
「コッチ」
また杏のこと、優しい目で見やがって。俺は、余計なことは話さずに指で部屋があるほうをさした。
「そっ。連れてってもいい?」
その言葉に返事はせず、俺が歩き出すとソイツは杏を抱えて付いてきた。
俺と一緒に付いてきた奴を、三人は何も言わずに見ていた。
部屋に入ると『どこでもいいの?』と聞かれ、頷くと左端のベッドに杏を寝かせた。
「よいしょ、っと…」
そして、杏の髪をヒト撫ですると、奴は微笑んだ。
「時間ある?」
「は?」
帰るんじゃねぇのかよ。奴は微笑んだ後、ゆっくりと俺を見た。
「碧都くんと、話したくて」
「俺は、話すことない」
「あれ、もしかして何か誤解してる?」
「は?」
クスッと笑う。余計に腹が立つ。バカにされてる感、満載だ。
「杏とは、何もないからね?」
「そんなわけねぇだろ」
杏を見る優しい目、何もないわけがない。
「うーん、どうやったら分かってくれるかなぁ。杏に俺の存在は、聞いてない?」
「あぁ」
聞いてたら、こんなモヤモヤしねぇっつーの。
「そっか。俺の名前は、柏木悠太。杏の血の繋がってない兄です」
血の、繋がってない…?ますます意味わかんねぇ。
「あー、俺たち幼なじみなの。家が隣同士でね。親同士も仲が良くて、杏が生まれた時、俺は5歳。妹が欲しかったから、杏がオンナノコだって分かった時は嬉しかったなぁ」
悠太さんは杏を見つめると、クスッと笑った。
「でもね…」
自慢話かと思えば、そうじゃないらしい。悠太さんの顔付きが、険しくなった。
「何才の時だったかなぁ。杏が3才、俺が8才だったか。杏のお父さんが、帰ってこなくなったんだ」
「え」
「どうしてか、分かる?」
俺が首を横に振ると、悠太さんは教えてくれた。
「他にオンナ作って、杏たちを捨てたんだよ」
声が出なかった。なんて言ったらいいか、分からなかった。
「杏はさ、いつも俺に『パパ、どこかなぁ?』って、聞いてきて。正直困ったよ。俺はもう8才だったから、自分の両親に聞いて理解してたからね。でも杏は、3才。理解なんて、できないだろ?」
杏にそんな過去があったなんて、想像もしてなかった。
「杏のお母さんは、一人で一所懸命働いてたよ。朝から仕事して、数時間寝て夜も仕事して。杏は、俺の家で預かってたんだ」
仕事一本、オンナ一人じゃ家計は苦しいか…。
「杏はとてもイイ子でね。ホントは、母親といたいクセに、それを俺らに見せないようにしてたよ。だから言ったんだ。『杏、俺をお兄ちゃんだと思って、何でも話なよ』って」
あー、それで『血の繋がってない兄』ってわけか。
「それから杏は、俺をホントの兄のように慕ってくれたよ。この通り、今でもね」
悠太さんは笑う。でも、まだどこか寂しそうな顔をしていた。
まだ、なにかあるのか…?けれど、悠太さんは全然関係ないことを聞いてきた。
「碧都くんは、杏のこと好き?」
「なっ…んで、そんなことアンタに…‼︎」
「言いたくなかった?でも兄としては、心配なのですよ」
兄…。そう言われると、言わなきゃいけねぇじゃねぇかよ。
「碧都くんなら、杏を任せられると思うんだ。俺の直感だけど」
直感って…。なにを根拠に、そんな考えに結び付くんだよ。
「俺、悪い奴かもよ?」
「そんなことないよ」
「なんでそんなこと、」
「杏を見る目が優しいからね」
何を言っても、この人には敵わない気がした。
「杏のことは、好きだよ。ムリヤリにでも俺のモノにしたいくらいに」
そう、言ってしまった。
悠太さんは、笑った。バカにする笑いじゃない。
「そうだと思った。良かったよ」
「ちょ、アンタなにやって…‼︎」
悠太さんは、突然頭を下げてきた。年下の俺なんかに。
「杏のこと、よろしくお願いします」
あぁ、この人。本気で杏が好きなんだ…。そして、杏も本気で好きなんだ…。
「って、俺父親みたいだな」
戸惑ってる俺に、悠太さんは『ハハハ‼︎』と笑った。
でも、また真顔に戻った。
「でもさ、杏。ひとりぼっちなんだよ」
「え、いや、でも」
「母親は、もういないから」
母親は、いない…?いや、でも父親がいなくなって、母親が一所懸命働いてたんだよな?
その後に、なにかあったのか?って、亡くなったとしか考えられないけど、悠太さんからそういう感情が感じられない。
『哀しみ』じゃなくて『怒り』のようなものが、感じるからだ。
ん?何か引っかかる…。なんだ、なんだ…?杏との会話を思い出す。最近じゃなくて…。もっと最初の頃…。
…あ、思い出した。
「すんません、話の途中で悪いんすけど…」
「うん?なにかな」
悠太さんは、俺が話を変えたことに怒ることもせず、聞いてくれた。
「父親、いないって言いましたよね」
「あぁ、言ったね」
「でも杏は、俺がある会話の中で父親の話をしたら『会社、潰せるの⁉︎』って、すごい必死だったんすけど…」
悠太さんの言うように、父親がいないのだとしたら、なんでだ?
「あー、それは多分…」
そう言うと悠太さんは、黙ってしまった。やっぱり、まだなにかある。
「婚約者の話、聞いたんでしょ?」
「婚約者…あぁ、何かその婚約者にオンナが出来たとか」
俺がそう言うと一瞬ピリッとした空気になった。
なんだよ、この空気…。そして、悠太さんの言葉に自分の耳を疑った。
「そう。そのオンナが、杏の母親」
「は?ちょ、待てよ。意味わかんねぇよ、それ。冗談だろ?」
笑えない冗談は、やめろよな。
そう思うも、悠太さんの表情は険しくて。思わず杏を見た。
気持ち良さそうに、寝息を立てて寝てる杏。時折、ネコみたいな手をして頬を掻いて、柄にもなく『可愛いヤツめ』と思ってしまう。
「まさか。冗談で、こんなこと言わないよ。事実だよ」
「そんなの‼︎おかしいだろうがよ‼︎母親だぞ⁉︎娘のオトコを取るって…なんなんだよ…」
「俺だって腹立って、しょうがないよ。でも事実は事実だから。だからその、会社の話。そのオトコのことを言ったんだと思うよ。もし結婚したら、杏の父親になるんだから。そりゃ潰したいと思うよね。でも今の杏は、きっと違うと思うよ」
違う、って…。そんなの、ずっと許せないことじゃねぇかよ。許すヤツなんて、いねぇだろ。
「ここまでかな、俺が言えることは。って、全部言ったようなもんだけど」
悠太さんは苦笑いをして、俺を見た。
「なんかうまく、のみこめないっす」
「だろうね。俺も最初は理解できなかったよ。杏の母親と付き合いがあったから、なおさらね」
関係ない俺らが、理解できねぇんだ。杏は、どれだけ苦しんだんだ。いや、まだ苦しんだよな…。
「まぁ、何か聞きたいことがあれば、いつでも連絡してよ。碧都くんなら、歓迎するからさ」
悠太さんは俺に名刺を渡してきた。
「じゃぁ、俺は帰るよ。杏のこと、支えてやってね?碧都くんなら、俺は安心して杏のこと頼めるよ」
「杏起こさなくて、いいんすか。きっと寂しがるんじゃないすか」
「大丈夫じゃないかな。碧都くんがいるんだし」
なんの大丈夫、だよ。二人きりにさせられて、俺はなにを話せばいいんだよ。
「ったく、無責任な兄」
「ハハハ、そうかもしれないな。じゃぁ、あとは頼んだよ?カレシになるかもしれない碧都くん?」
なんだそれ‼︎なるかもしれないって。悠太さんは、手をヒラヒラさせ帰って行った。
最後、杏を愛おしそうに見つめながら…。
「…どうすっかな」
とりあえず俺は、杏を起こさないよう、ベッドに腰を下ろした。
あ、れ…。なんか手が温かいな…。誰かに優しく握られてる。
これは夢?それとも、現実?夢ならば、誰だろう…。
『杏』
あ、わたしの名前。この声は、碧都?すごく優しい声。
じゃぁ、手を握ってるのも碧都?目を開けて碧都だったら、いいのに。
そう思いながら、ゆっくりと重い瞼を開いてみた。
「やっぱり、碧都だった」
「は?んだよ、それ。大好きな悠太さんじゃなくて悪かったな」
悠太さん…?わたし悠ちゃんのこと、悠太さんなんて言ってないよね…?
っていうか、紹介もしてないと思うんだけど…。って、わたしまた寝てたの⁉︎
「あの…。わたしまた寝てたんだね、ごめん…」
「いや、別に。暇な時間帯だったし、いいんじゃねぇの」
「そっか…。って、なんか…聞いた?」
「なんか、ってなんだよ」
「いや、ほら…。わたしのこととか」
今まで会話のキャッチボールができていたのに、わたしが投げたボールを碧都は落とした。
「別に。なんも聞いてねぇよ」
ウソだ。絶対なにか聞いた。悠ちゃん、なにを言ったのよ‼︎
もしかして、あのこと碧都に言っちゃった…?
「でも碧都、」
「ほら、さっさと支度しろよ」
「いや、でも、」
「もうみんないねぇぞ」
「えぇっ⁉︎」
またわたし、何時間寝てたのよ…。これじゃぁ、お給料なんてもらえないね。