「でも……」


光子は困ってカウンターを見た。マスターは聞き耳を立てているようだったが、知らぬ顔をしていた。光子の思いに薄々気づいているらしいマスターなりの、粋な計らいかもしれなかったが、突然のことに光子はパニックになりかけていた。


「おねえさんとは、もう長いお付き合いですね。お話するのは初めてですが」


「……30年、です」


観念した光子は、少しぼうっとした頭で答えた。


「このくらいだったかな」

彼は、目分量でピッチャーからミルクをゼリーにたっぷりと注ぎながらつぶやいた。そして、つやつやと光る黒いゼリーにスプーンを入れ、白いミルクにひたして、ゆっくりと口に入れた。


「甘ったるいかと思っていたら、意外とほろ苦さが残っているんですね」


彼は、口元を紙ナプキンで拭きながら、光子に話しかけた。


「おねえさんは覚えていますか。僕がここに通いだした頃、一人の女の子が一緒だったことを」


「ええ、まあ」


「その子が、これを食べていたんですよ。コーヒーは苦くて飲めないけれど、このお店のコーヒーゼリーなら食べられた。僕は、女の子っていうのはどうしてこんなに甘いものが好きなのか、なんて考えていました。でも、実際に自分で食べてみると、美味しかったです」


彼は少し背を反らせてふっと笑ったが、すぐに真剣な顔つきになった。


「あの子は、亡くなりましたよ」

光子は、トレイを取り落としそうになったが、力を込めて握りしめ、なんとか姿勢を保った。


「亡くなったのは、昨日でした。今日がお葬式でね。その帰り道です。あの頃は睦まじかったのですが、彼女には好きな男ができて、ふられてしまったんです。結局彼女はその男と結婚したんですが、その男には愛人ができて、家に生活費も入れなかったそうです。そして彼女は子供を抱えて働いていたんですが、離婚はしなかった。足りないときは僕に電話をして、借金していきました。僕はといえば、いつまでも独身を続け、彼女を金銭的に支援するために生きてきたようなものです。でも、彼女は無理がたたったんですね。体はぼろぼろで、最後はどの臓器が致命的に悪かったのか分からないくらいに、病魔に蝕まれていました。僕のことも、もう最後に入院した頃には認識していなかったんじゃないかな」


光子の目の前に、コーヒーゼリーを食べながら、驕慢な笑みを浮かべる彼女の顔がちらついた。


「本当に、愛していらっしゃったのですね」


「どうかな」


彼は、悲しげに笑った。


「自分の気持ちに、正直な話、自信はありません。ただ、支援が慣習だった。だらだらと続け過ぎたのかもしれませんね。金と死が僕らを別った。それだけのことかもしれない」


光子は、何も言うことができなくなった。しばらく沈黙が彼らを覆い、やがて彼がコーヒーに口をつけた。


「やはり、僕はこちらがいい。コーヒーゼリーは、彼女との永訣のために口にしましたが。これからも、僕はこちらでこのコーヒーをいただくでしょう」