「どうして?」

不思議そうな声が振ってくる。
私はもしかすると、震えていたのかもしれない。

「私には、保坂くんが……」

「でも、俺とキスしたよね」

キス?あんな暴力的で一方的なものが?
私は混乱しながら、それでも必死に抵抗した。

「あれは、あなたが……」

「確かに俺からしたけどね。でも、したって事実はかわらないよね」

落ち着いた声。さっきまでとは雰囲気が違う。
私はいよいよ気を失いそうな程恐怖を感じた。
何を言っても、どうしても、彼からは逃れられないんじゃないかとすら錯覚する。

 私は意を決して、勇吾さんの頬を残った左手で叩いた。

誰もいない公園に、軽い音が響く。
勇吾さんは、笑っていた。

「まぁ、いいよ。でも、薫ちゃんは真面目だからさ。もう勤の奥さんにはなれないんじゃないの?」

私ははっとして勇吾さんを見上げた。
それが、目的なのかと今更ながら思い至る。
なんて、バカなんだろう。私は。

「やめて……」

「何を?」

声はどこまでも優しいのに、腰に回されていた腕が解かれ、その手で私のワンピースの襟元を優しく撫でる。
さっきまで抵抗しようと抗っていた心は、再び恐怖ですくみ上がる。

この先に進ませることの意味を、私だってわからないわけじゃない。
でも、声が出ない。

「もう、嫌がらないんだ」

微笑んで、ワンピースの前を止めていたボタンを引きちぎる。
ぶちぶちという音と、はじけ飛ぶボタン。
それをスローモーションで眺めながら、私は今度こそ心が折れるのを感じた。

「勇吾!」

 それは、唐突に。
反射的に振り向いた先には、誠二さんがいた。
私の姿を見て、誠二さんは驚きと怒りをその顔に滲ませる。

「お前さ、何してるかわかってるの?お前の姿が見えないから、もしかしてって思って来てみたんだけど」

「わかってるけど」

私の腕を掴んだまま、勇吾さんは呟いた。
まるで悪びれる風もなく。

「誠二さ……」

ガチガチと歯が鳴る。
諦めかけていた心を奮い立たせて、私は空いている方の手を誠二さんの方に伸ばした。

「もう、勤には電話したからな」

優しく言われ、涙が溢れた。
そこでやっと、私の右腕が自由になって、ふらふらと倒れこむように誠二さんの下へと歩みを進められた。

「でも、もう薫ちゃんは傷物になっちゃったからなあ」

のんびりと呟く勇吾さん。
傷物。
その言葉に、私の身体が震える。

こんな私じゃあ、もう保坂くんの側にはいられないのだろうか。

自衛が足りなかった。
ふらふらとライブなんか行くんじゃなかった。
送ってもらうんじゃなかった。

色々な思いが頭の中を駆け回って、私はその場にへたり込んでいた。

「兎に角、他の奴らは帰らせたから。薫ちゃん、薫ちゃんが嫌じゃないなら、今から警察いったっていいんだよ」

誠二さんが優しく、肩から上着を掛けてくれても私は何も答えられなかった。
今はただ、勇吾さんといるのが怖かった。
ただ震えているだけしか出来ない自分に腹を立てながら、それでも恐怖の方が勝って。
どうしようもない気持ちの流れに翻弄されるまま、気がつけば私は気を失っていた。