サツキは、この頃、ちょっとしたことで怒り出す。
その日もそう。
これから映画が始まるというのに、
「私、もう、いい!」
と言ってシートをはね上げ、出て行ってしまった。
原因は分かってる。
高2の時、初めて出来た彼女とここで初デートしたって話を俺がしたから。
サツキにしたら、無神経ってことになるらしい。
だからって、これから始まる映画を放り出すほどのことなのか、正直言って、ワケわかんねえ。
これは、ノスタルジアだよ。
たまには、浸りたかったんだよ。
サツキには、分からないかな?
一応、あとを追ったけれど、小さな映画館を飛び出したサツキは、紺のスカートを翻し、白いふくらはぎを見せつけるようにして、駅の方へと向かっていく。
早い。
その後ろ姿を10メートルほど追いかけたところで、俺は段差につまづき、ガクリと膝を折った。
イッテー…としゃがみ込んでいると、きゃっきゃと黄色い声がして、振り向くと、俺の不様な姿を、女子高生2人組が見て笑っていた。
うるせえ、お前ら、大根足のくせにパンツ見えそうなスカートはきやがって。
電車の中で絶対、近くに寄ってくんなよ。
まだクスクス笑っている女子高生を横目にまた歩き出した。
そういえば、サツキは高校時代、陸上部だったと言ったっけ。
追いかける気なくして、俺は佇む。
夜の闇に向かって、わざとらしく溜め息をついた。
あとでメールをしないと、サツキはむくれるだろう。
曖昧なことが嫌いな女だ。
分かってる。
もう5年も付き合っているのだから。
いつ頃か、
サツキは「結婚しよう」という俺の言葉を待っている、と気付いた。
プライドの、高い女だ。
自分からは言わない。
サツキの願望を俺はスルーし続けている。
倦怠期と、いうやつなのかもしれない。
「俺はお前のこと、好きなのかどうか分からない…」
知らず知らずのうち、呟いていて、ハッとした。
やっぱ、倦怠期なんだろうな。
右手で頭をガシガシやった時。
「あっ…」
俺は右手の薬指に嵌めているはずのプラチナのリングが、ないことに気付いた。
去年のクリスマスにペアで揃えたものだ。
プレゼント交換の形で。
サツキのがダイヤが入ってるから10万くらい高かったけど。
去年の10月の辞令で、エリア統括責任者になった俺は、出張や残業が増え、サツキと過ごす時間がとれなくなった。
サツキがペアリングをしよう、と言い出したのは、『絆が欲しい』という理由からだった。
「やべ……参ったな…」
右手の薬指をまじまじと見る。
いつからないんだろう?
ふちにゴールドのラインが入った艶消しのそれは、俺の皮膚と完全に一体化していたはずだった。
夕方、取り引き先から帰ってきて、パソコンに日報を打ち込んでいる時はあった気がする。
サツキが不機嫌悪いはずだ。
ひと月ぶりのデートが、夜景の見えるバーではなく寂れた映画館で、俺の指にはリングがなかったのだから。
もしかしたら、映画館の中に落としたのかもしれないけれど。
「ま、いっか…」
中にいた高校生カップルがイチャイチャしてるかもしれない。多分。
そんなところに戻って、床這いつくばって指輪探したら、絶対、変態だと思われるだろ。
今年で結婚10年目だという、有村先輩は、680円のカツ丼を食いながら、溜め息を吐いた。
「満員電車に揺られて、ようやく帰ったら、夕飯は、もやしと豆腐の炒め物の節約メニュー。
風呂はぬるくなってて、でも、ガス代もったいないから追い焚き禁止。
車は燃費重視、奥さん好みのファミリー・カー。
極め付けがよ、小遣い2万円だぜ?
それもこれも、マイホームのローンの為。あと25年もこの生活続くんだよ?
そのくせ、あいつは新しく買った服、去年、買ったのよ、とか言い張ってるし。
俺の靴下は穴開いたら、つま先縫ってやがる。
それでも笑って生きて行かなきゃなんねえのかよ?
なんの為に結婚したんだよ?
俺はあいつの下僕か?
会社にいるほうがまだマシだわ…」
同じ課の有村さんは、事あるごとに家庭の愚痴を言う。
「しっかり者なんすね、奥さん」
俺は、いつも通り笑いながら返す。
2万の小遣いは、さすがにひでえな、と心の中で有村さんの奥さんの横暴さに呆れてしまう。
だけどーーー女は、家庭を持ったら、豹変するのかもしれない。
「寝てても構わない。俺が残業で帰りが遅い時くらい、ポーチの灯りは点けたままにして欲しいよ」
有村さんが繰り返す結婚生活残酷物語に、いつの間にか洗脳されてしまったのかもしれない。
だが、空白の指を、このまま放置しておくわけにはいかない。
サツキにメールで、指輪を失くしてしまったことを告白したが、なんのリアクションもなかった。
なんでだ。そんなに怒っているのか。
ーー同じやつを買って、嵌めておこう…
俺は、会議中に思い付いた。
指輪を買った店は、サツキが見つけてきた、そこそこ高級感のある店だ。
会社帰りのスーツのまま、1人で自動ドアの前に立つのは勇気が要った。
午後9時閉店の店に、8時45分に駆け込むなんて、迷惑以外の何ものでもないだろうが、残業から逃れることはできないから、仕方ない。
ブオン、とガラスの扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
ショーケースの向こうにいた黒いユニフォームに、ブラウンの巻き髪をした女性が驚いたようにこちらを見る。
当たり前だ。男1人の客なんて珍しいだろう。
というか警戒されるに決まっている。