「ダメです、もらえません。…十の力にはなりたいと思ってます。十のことだって、大切に思ってるし。でも…。正直言うと、これをもらっても力になれるかわからないんです。もしかして十の足を引っ張ることになるかもしれないし。何より十が、こんなことを望んでるか…」
「涼ちゃん、これは十が送ってきたのよ」
「十が…?」
「あの子も涼ちゃんと自由に話がしたいんだと思うわ。だから、これを持っていてほしいの。あの子が話したいと思った時、いつでも涼ちゃんにつながるように。迷惑も考えないでごめんなさいね」
「おばさん…」
わかってる。
十のためにしてあげられることは何か、鷹宮の母だって一生懸命なんだ。
十、どうしたらいい?
私の意志は弱過ぎて、たくさんの人の言葉に心を揺らされる。
ただ、十が好きだということは変わらないのに、何が正しいのかわからない。
会いたい。
十に会いたい。
月に誘われるように、外へと足が進む。
頭の中には、尾根さんの言葉が浮かんでた。
十が望まなくても、十のために…
「涼ちゃん、携帯が鳴ってるわ。十からよ!」
胸の前で組んだ手が、小さく震える。
声が聞きたい。
十が好きで仕方ない。
でも、それを手に取ることはできないんだ。
私は言葉も出ず、首を横に振った。
「お願い、出てあげて。声を聞かせてあげて」
ボタンを押せば、一瞬で十の近くにたどり着ける。
遠かった距離が、隔たりもなく隣に十をつれて来る。
こんなにも簡単なことなのに、それを引き止める心がどこかにある。
「ごめんなさい…、帰ります」
鷹宮の母から顔を隠して、私は玄関を出た。
本当は今すぐにでも東京へ向かいたいくらい、十と会いたい、話がしたい。
でも、迷いがある。
不安がある。
私は自分の意志を確かめるために、もう一度堤防へと向かった。
十のために私がすることは、何なのか。
堤防は静かだった。
考えることを忘れて、ただ時間に身をまかせる。
川の音がサラサラ聞こえて、少しずつだけど、気持ちを落ち着かせてくれるようだった。
今、何時だろう。
そういえば、おじさんの所に寄る約束もしてたんだっけ。
もうお店は、閉めてしまったと思うけど。
雑誌は見つかったかな。
二十年前、布施原さんに何があったのか。
その答えが、私の道を教えてくれるような気がする。
冷たい風。
動きが鈍る身体とは正反対に、私の思いは少しずつ行くべき方向を導きはじめてた。
愛撫してくれるススキが多いせいか、この街の月は輝きに陰りがない。
お父さん、お母さん
ごめんなさい。
私、今日は帰りません。
小さな駅は、まだ稼働中だ。
***
時を超えて
***
大きな駅の光が、桜の木をぼんやり浮かび上がらせて。
こぼれたカケラは、根元のベンチを照らしてた。
銀の光が混ざった髪を月にさらしながら、弱り切った手のひらがページをめくる。
「秋の夜長には、読書と決まっていてね」
「でも外はもう寒いよ。それに、週刊誌を見ることはあんまり読書って言わないんじゃない?おじさん」
二十年以上前のその雑誌は、さぞ丁寧に保存されていたんだろうと想像させるくらい
折り目どころか、変色さえも感じさせなかった。
「東京に行くのかい」
「うん。でもそれでいいのかは、まだ分からない。ただ、このままじっとしてられないだけ」
「…いいんじゃないかな、それで。何もしないまま後悔を残すよりは、ずっといい」
雑誌をたたんで、おじさんは桜の木を仰いだ。
三十年前ーーー
「今日は、新刊出てますか」
初々しい額を出して、髪を後ろに束ねた由起子は、店の表戸を静かに開けた。
あどけない笑顔に、男はまた胸をときめかされる。
街でも評判の美少女。
本棚越に、途切れ途切れでつながる視線。
精算台で、わずかに触れる指先。
密かな想いは、長い月日を必要とせず、いつしか二人は恋に落ちた。
しかし二十を超える年の差は、世間から二人の想いを隠さずにはいられない。
「また明日、桜の木の下で」
由起子と男の静かな文通が始まった。
花が咲いても、葉が散っても、二人の想いが変わることはなかった。
今は無理でも、時が来ればきっと堂々と想い合えるはず。
そう互いに信じ続けていたのだ。
『いつか陽の当たる場所で手をつなごう』
やがて由起子の評判を聞き付けたプロダクションが、芸能界へとスカウトにやって来る。
「NEOプロダクションの社長をしております、尾根と申します」
女優となった由起子には、固いガードがついてまわり、次第に手紙は男からの一方的なものとなった。
ただ返事を待つだけの日々が続く。
そして郵便受けの釘が錆で音を鳴らす度に、男は自信を失っていった。
『布施原由起子に恋の花』
仕事柄、嫌でも目にする多くの記事。
名のある俳優との噂が出るたびに、男は苦しんだ。
そしていつしか、男は手紙を書くことをやめた。
忙しい毎日の中の支えであった男からの手紙が途絶え、由起子はやがて笑顔を失っていく。
会いたくても自由に会うことができず、自分の気持ちを伝える手段さえ失っていた由起子は、ある生番組の最中に、男への想いを叫んだのだった。
世間に衝撃と偏見の目が広がる。
「下品な女優」
「二十も歳の離れた男との醜い恋」
由起子は、芸能界から姿を消した。
桜の下に立つ度に
男は由起子を想う。
信じてやれなかった
自分を責めながら。
時間をかけて戻った芸能界では、昔のように仕事は入らなかった。
今では無名に近い二流の女優となった由起子は、復帰して数年後に、偶然にも自分と近い想いを背負った少女に出会う。
この子がどうか、幸せになれますように。
由起子は心から願い、涙を流す少女にハンカチを差し出した。
かつて互いを信じ合った男に対する、深い想いを重ねながら。
震える腕で、おじさんは私に雑誌を託した。
紙のにおいが、時空を飛び越えるように感じる。
「長い間引きずって来た。なぜあの時、自分は何もしなかったのだろうと。……自信がなかったんだ。他の人間のせいじゃない。自分の気持ちが弱かった。だから何も言えなかった。できなかった。彼女が自分の身を削ってやったことにさえも、応えられなかったんだ。
情けない。彼女が人々の前から姿を消した時、心配で眠ることもできなかった。彼女に何かあれば、それは自分のせいだと、やりきれない日々が続いた。
再びテレビで彼女を見た時は、安心と同時に悲しみがよみがえったよ。この木の下で約束したことを守れなかったばかりか、あんなに眩しかった笑顔を、自分のせいで惨めな女優に変えてしまった。
……全て自分一人で決めてしまった結果だ。信じるだけで違っていたかもしれないのに、それをしようとしなかった。彼女との連絡を断つことが、彼女のためだと勝手に判断したんだ。
後悔しても取り戻せない時間がある。わたしは彼女の全盛期を無駄にしたんだ」
葉が落ちる。
流れる涙と共に、とてもとても優しく。
風は時間を止めて、おじさんの肩にぬくもりを与えた。
「おじさん…、私は十をずっと邪魔だと思ってたの。近くにいてほしくなくて、誰にも幼なじみだなんて知られたくなかった。でも…、ずるいかもしれないけど、今は十の近くにいたいと思ってる。私の側にいてほしいって。今度は私が、十の邪魔になるかもしれないのに。
勝手でしょ。でも、よくわからないけど、相手のためにって思う前に、自分の気持ちに嘘をつくことは違うんじゃないかって思ったの。もし相手が自分を選んでくれなかったとしても、自分の気持ちを消してしまうのは嫌だから。
ファンレターに綴った言葉は嘘なんかじゃない。例えばそこに、自分の想いを残しておけたら、それまでの毎日に無駄なんてなかったって、自信を持てるかもしれないから。
伝えたいことは、どんなに些細なことでも必要じゃなかったものなんてひとつもないの。感じたこと全部が、二人がいることで生まれたものだから。十がいるから、この気持ちがある。それだけは、忘れたくない」
月がずいぶん傾いた。
低い音を立てながら、最終列車がゆっくりと駅に入る。
落ち葉を回転させた秋の風は、凛とした身体をエントランスへと引き込んだ。
「桜の木の歴史を、変えてほしい」
手の平にのせられた、ほのかに緑色の桜の葉。
私はそれを雑誌にはさんで、光が落ちかかる駅のホームへと走っていった。