詩帆さんは笑いながら着替えを始めた。
私はぼんやり更衣室のベンチに座って詩帆さんと喋っていたのだが、詩帆さんがかがんだ時に見てしまった。
広く開いたデコルテラインから見えた、黒のセクシーなブラ。
覆いきれずにはみ出している、無数の赤い斑点。
私はそれとよく似たものを、今朝浴室で見た。
「詩帆さん、それ……」
思わず指摘すると、詩帆さんは眉間にしわを寄せた。
「ああ、これ? 時々付けられて困るのよ。デート断らなきゃいけなくなるし」
サッと素早くブラウスのボタンを締める。
「オヤジさん、本当は詩帆さんのこと独り占めしたいんじゃないですか?」
「私にもオヤジを独り占めさせてくれるんだったら、それでいいんだけどね」
相手は性欲が落ち着くまで女遊びを続けると宣言している男だ。
そうはいかない……か。
なのに自分は詩帆さんを独り占めしようだなんて、勝手すぎる。
そんな男のどこがいいの?
顔? 顔なの?
それとも晴海が私だけにちょっぴり意地悪なのと同じで、卓弥さんも詩帆さんにだけ見せる顔があるのだろうか。
「あいつ、仕事と女遊び以外にも副業とか色々やってるみたいで、私にも得体が知れないのよね」
「副業、ですか」
「うん。パソコン部屋に変な機械がたくさんあってさ。それを使って何か作ってるらしいんだけど、よく知らないの。教えてくれないし、難しそうだからあんまり興味もなくて」
それってもしかしなくても、作曲と音響のための機材なんじゃ……。
副業って、劇団エボリューションの曲作りのこと?
どうやら詩帆さん、卓弥さんが作曲家をやってることを知らないようだ。
もしかしたら秘密にしているのかもしれない。
私が卓弥さんとお知り合いになっていることは、まだ打ち明けない方が良さそうだ。
「そういえば明日香も寝不足顔ね」
ギクッ……。
「ちょっと、眠れなくて」
私たちのことは、またそのうち改めて話すことにしよう。
今は詩帆さんと卓弥さんの板挟みになってしまった状態に、静かに慣れたい。
もちろん、私は詩帆さんの味方だけれど。
第13幕:ドレスの重量
待ち合わせは午後7時過ぎ。
いつものショッピング施設の1階。
晴海は朝とは違う服を着て現れた。
顔を合わせると昨夜のことを思い出し、二人して照れる。
「鍵……返すわ」
「え、あー、うん。ありがと」
テーブルに置いておいた鍵が、返ってきた。
私はそれを握りしめ、小さな金属に移った彼の熱を冷たい指に吸収した。
間接的に手を繋いでいる感覚を覚え、余計に昨夜を思い出す。
「あのさ、明日香」
落ち着いた声で呼ばれた名前。
「は、はいっ」
なにか大事なことを言うのだと察知して恐縮する。
「千秋楽まで待てずに色々順番が前後したけど、俺たち、ちゃんと付き合おう」
周りに人がたくさんいるのに、晴海は潔く堂々と言ってのけた。
隣の柱に寄り掛かっていた女の子は私たちの会話を聞いていたようで、驚いている。
そんなことを言ってもらえるなんて思っていな
かった。
私たちは確かにお互いに好き合っているし、昨夜に至ってはセックスまでしたけれど、関係はこのまま曖昧にするのだと思っていた。
晴海には、舞台が終わるとすぐに華やかな新生活が待っている。
田舎くさい私なんかが彼の気持ちをキープできるほど、恋愛は美しいものではない。
だけど、付き合おうと提案してきたということは、その努力をしてくれるということだ。
それが嬉しくて、涙が出る。
「うん!」
何度も頷いて答えると、晴海が笑顔になった。
「泣くなよ」
「だって、嬉しくて」
「俺も嬉しい。遠くに行く男なんかと付き合えないって言われたらどうしようとか、思ってたからさ」
涙で崩れたメイクのお直しに時間を費やしたため、復帰当日から時間ギリギリでの稽古場到着になった。
「お騒がせしてすみませんでした」
二人で劇団のみんなに頭を下げる。
昨日晴海が散々怒られてくれたから、笑って許してくれた。
「明日香ちゃーん! よかったぁ!」
ともちゃんが抱きついてくる。
「ありがとう。ごめんね心配かけて」
「もう晴海ちゃんの言うことなんて無視していいからね」
ともちゃんがチョコを捨てずに晴海へ渡してくれたから、仲直りもできたし劇団にも戻ることができた。
感謝のしるしに、今度何か可愛いものでもプレゼントしよう。
「で、どうやって仲直りしたんだよ?」
タカさんはいやらしい笑みを浮かべて晴海をイジり始めている。
「普通に謝りに行っただけです」
「ふーん、どんな感じで謝ったのかなー」
「もう覚えてないっすよ!」
晴海にビンタをお見舞いした恵里佳ちゃんは、大学入試のため東京へ行ってしまったそうで、今日は欠席。
既に推薦入試で県内の大学へ進学することが決まっている堤くんが寂しそうにしている。
彼は私と目が合うと、軽く会釈をして笑顔を見せてくれた。
それからすぐに携帯を操作していたから、きっと私の復帰は恵里佳ちゃんにも知らされているだろう。
「おーい、始めるぞー」
高田さんがやって来た。
高田さんは私がいるのを確認すると、「ふん」と軽く笑って集合をかける。
「無事にアンジェラが帰ってきたところで、今日はお前らお騒がせ組は罰ゲームだ」
「罰ゲーム?」
私と晴海は顔を合わせ、首をかしげた。
迷惑をかけてしまったことは事実だから、罰があると言われれば、甘んじて受けよう。
……そう思っていたのだが、高田さんの言う「罰ゲーム」は、精神的にかなりキツいものだった。
「違う違う。もっと色っぽく、しなやかに。ガバッといって、じっくり近付くんだよ」
端的に表すのなら、キスシーンの練習。
実質を示せば、羞恥プレイとも言える。
舞台では実際にはキスしない。
フリだけするのだが、これがなかなか難しい。
美しいシーンにするためには、それなりに美しくキスの動きをしなければならない。
加えて、どの客席から見ても触れているように見えなければならないから、かなりギリギリのところまで顔を近づける。
私は目を閉じ受け身になっているだけでいいが、晴海は私を支えながら距離感まで掴まねばならない。
「もっと近く」
「えっ? これ以上?」
「なんなら実際にしてもいいんだぞ」
「えっ! えっと、それは……」
晴海は何でもすぐに顔に出るから、私たちがデキていることなど、さっき私たちが稽古場に入ってきた時からみんな察している。
その上で、こうしておちょくられているのだ。
「はい、もう一度遠慮がちに抱き合うところから」
またやるの?
……なんて怖くて言えないけど。
私と晴海がラブシーンを練習している間、他のみんなは小道具を作っていた。
タカさんはいつも練習で杖として使っている竹の棒に、金色や赤色のフィルムを貼り付けながら野次を飛ばす。
「お前ら、何をそんなに照れてんだよ」
女王の扇子にビジューを貼り付けている堤くんも、ニヤニヤしながら私たちの様子を楽しんでいるようだ。
晴海はムキになって言い返す。
「ここまでピッタリくっつくと、誰だって緊張するでしょ。いつも悪役のタカさんにはわかんなかもしれないっすけど!」
晴海が声を張るから余計に照れ感が強まって、高田さんまで笑う。
「相手が明日香さんだから、興奮してるんでしょ」
堤くんまでイジり始める。
昨夜垣間見た晴海のSっ気は、男性相手には発動しないようだ。
「別に、興奮とかしてねーし!」
ここで衣装の白いヘッドキャップにゴムを入れているともちゃんも参加。
「これから何十回もやるのに、毎回そんなに興奮してたら身が持たないよ?」
「大丈夫だし! こんなの、すぐに慣れるし!」
そんな言い方、全然大丈夫な感じがしない。
そしてとうとうタカさんがトドメを刺しにかかる。
「お前、童貞かよ」
「どっ、童貞じゃねーし!」
稽古場が、さらに湧く。
言いながら晴海が私を見るもんだから、私はササッと視線から逃げる。
だってこのタイミングで私を見るなんて、「そうだよな」と私に同意を求めているのと同じ。
ここで私が同意したり照れたりすれば、みんなに「私たち、しました」って言いふらすようなものだ。
しかし目敏いタカさんは私の動きに気が付いていたようで、私と目が合うなりニヤリと笑った。
「ふーん」
思わず目を逸らす。
人生経験豊富なバツイチ子持ちのタカさんには、バレたと見て間違いないだろう。
稽古場はしばらく、晴海イジりで笑いに包まれていた。
その間に、ともちゃんが自分のヘッドキャップを完成させた。
白い布にレースを縫い付け、ゴムを入れてきゅっと絞っただけの、簡易的なキャップ。
アクセントに黒いリボンをあしらっている。
手縫いでここんなのが作れるなんて器用だなぁ。
私は裁縫なんてほとんどやったことがないから、てんで自信がない。
完成した衣装や小道具は、この稽古場に持ち込まれる。
大きなもの以外は、普段私たち女性演者が更衣室として使う小部屋に収めている。
はじめのうちは物がほとんどなくて広かった更衣室が、今では衣装を着たトルソーが5体も並んでいるからとても狭い。
タカさんが着る、威厳に満ちた王様の衣装。
堤くんが着る、スマートな執事の衣装。
晴海が着る、爽やかで華やかな王子様の衣装。
恵里佳ちゃんが着る、艶かしい女王の衣装。
ともちゃんが着る、上品で落ち着いたメイドの衣装。
私のドレスだけが、未だに完成していない。
私にだけカツラがあるらしいが、それもまだ完成していないそうだ。
「よし、休憩終わり。稽古続けるぞー」
「はい!」
翌日、会社にて。
「他に何か連絡がある人はいないかな?」
工場長がそう言うのを、私は再びドキドキしながら待っていた。
「はい!」
私が手を上げると、事務所内が少しざわめく。
今度は何を言い出すのかと、若干の期待が混じった視線を感じた。
「じゃあ牧村さん、どうぞ」
「あの、先日お話したミュージカルのことなんですけど」
「うん」
「私、ヒロインに復帰することになりまして」
「ええっ?」
事務所がどよめいた。
前回以上のサプライズという意味では、期待に応えられたようだ。
「牧村さん、歌うの?」
「歌いますし、踊りますよ」
見られるのは今でもちょっと恥ずかしいと思ってしまうけれど、でも、きっと良い舞台になるから見にきてほしい。
「牧村さんが出るなら、僕も見たいんだけど」
工場長がそう言ってくれたのを皮切りに、この日だけでチケットがノルマより10枚多く売れた。
驚いた。
みんなが応援してくれていることが嬉しい。
私がミュージカルなんてガラじゃないし……と構えて、損をしていた。
見に来てくれるみんなのために、最後までちゃんとやりきろう。
私が舞台で歌うのは、なにも晴海のためだけじゃない。