ラブソングは舞台の上で


「はい、やります。もうわがまま言いません」

恵里佳ちゃんがそう言って、やっと空気が軽くなった。

タカさんや堤くんも、ホッと安堵の表情を見せる。

「うん。よかった。よろしくな」

晴海は小さな妹をあやす兄のように笑って、恵里佳ちゃんの頭をポンポンと撫でた。

「ひとつだけ、聞いてもいい?」

まだ鼻声の恵里佳ちゃんが、甘えるように問いかける。

「いいよ。なに?」

「晴海ちゃん、明日香さんのことが好きなの? もちろん、女の子として」

……え?

さっきとは違う感じで空気が張り詰めた。

このタイミングで、そんなこと聞いちゃうの?

タカさんと堤くんの視線が私に刺さる。

晴海とも目が合ったけれど、私の方から先に逸らしてしまった。

「好きだよ。女の子として」

晴海は平然とそう告げた。

ドキッと私の胸が跳ねる。

顔が熱くなっていたたまれない。

「そっか、わかった」

恵里佳ちゃんはふっきれたような明るい声で言って、足元に置いていたバッグを肩にかけた。

「堤、帰ろう」

「え、ああ。うん」

そしていつものように堤くんを引き連れて、静かに稽古場を去っていった。


パタンーー……

扉が閉まると、この場に残っているタカさんと晴海、そして私の小さなため息が見事にハモった。

それが可笑しくて笑った音までキレイに重なる。

「恵里佳、何とかなったな」

先に声を出したのはタカさんだ。

「なりましたね」

晴海はくたびれた顔で頭をかく。

「お前、超冷静な感じで公開告白したな」

「そうっすね。そうなりますね」

「大丈夫か?」

「こないだ一回告ったんで平気っす」

「マジか」

彼らの気だるくてゆるい会話の間に、外から微かに声が聞こえた。

恵里佳ちゃんと堤くんだろうか。

何気なく窓から道の方を見下ろしてみる。

「ひゃっ……!」

驚いて、つい軽く悲鳴を上げてしまった。

「どうした?」

「いえ、何でもありません。思ったより、窓が冷たくて……ははは」

とごまかしながら、もう一度見下ろしてみる。

私が見てしまった光景は、さっきとほぼ変わっていなかった。

堤くんが恵里佳ちゃんをギュッと抱きしめ、キスをしている光景。

ただし、一度目に見た時は無理矢理な感じがしたけれど、今はそうでもないような印象を受ける。

願わくば、今まで懸命に恵里佳ちゃんを支えてきた堤くんが、報われますように。


「俺らも帰ろうぜ。俺、明日現場早いんだよ〜」

タカさんがあくびをしながら向こうに放っていた荷物を持ち上げる。

換気扇を消したり明かりを消したりして外に出ると、さすがにもう二人の姿はない。

「じゃーなー」

タカさんは店の前に停めていた単車で去っていった。

「俺らも帰るか」

「うん」

晴海は私をバス停まで送ってくれた。

バスが来るまで話をしていたが、お互いに公開告白のことには触れなかった。

「ねぇ、さっき見ちゃったんだけど」

「何を?」

「堤くんが恵里佳ちゃんにチューしてた」

「マジ!?」

晴海が大声を出したから、周りの人の視線が数秒こちらに向いた。

「声大きい」

「ごめん。でもさすがに驚いた。堤のやつ、しれっと頑張ってんだな」

「うん。急には無理かもしれないけど、上手くいってほしいって思ってる」

「俺も」

私たちはどうなるんだろうね。

つい声に出して言いそうになったけれど、寸でのところで息を漏らすだけに留めることができた。

私の疑問は一瞬白く濁った後、風に乗ってどこかへ行ってしまった。







第9幕:病める歌姫








日本の集合住宅の壁は薄いと言われるが、どうやら床も薄かったらしい。

『どなたかは申し上げられませんが、何件も苦情が入ってるんですよ』

「そうでしたか……すみません」

『迷惑行為は契約違反にあたりますし、改善されない場合は退去していただくことになりますので、よろしくお願いしますね』

「本当に、申し訳ありませんでした」

夜、帰宅してからダンスの練習を家でやっていたのが、アパートの他の部屋に響いたらしい。

1月下旬の仕事中、アパートの管理会社から苦情の連絡が来てしまった。

できるだけ音を立てないようにしていたつもりだった。

しかし、それは自己満足に過ぎなかった。

夜中に重さ約50キロの物体が飛び回るのだから、冷静に考えれば「静か」というわけにはいかないに決まっている。

さて、これで自宅では練習できなくなってしまった。

かといって何もしないのでは覚えられる自信がない。

どうしたものか……。


たまに夜中の駅やショッピング施設のショーウィンドウのところでダンスの練習をしている若者達を見かける。

どうしてあんなところで踊っているのだろうと疑問に思っていたけれど、やっと答えが出た。

自宅では迷惑になるし、踊りの練習ができる場所がないからだ。

ショーウィンドウは鏡の代わりになるからうってつけである。

しかし、だからって私には彼らに混じって人前で練習をする度胸なんてない。

夜中に踊っても人の迷惑にならない場所って、どこだろう。

私が無い知恵を絞って出した答えは、近所の小さな公園だった。

昼間は子供達が遊んでいるが、さすがに夜中に人は来ないだろう。

鏡になるようなものはないけれど、明かりもあるしトイレもあるじゃないか。

この日の稽古後、バスを降りた私はさっそく、自宅ではなく直接公園へやって来た。

「うー、さむっ!」

障害物の少ない公園は、風がよく通る。

だけど動けばきっと暖かくなる。

運動着ではないし靴もヒールのあるブーツだけど、とりあえず踊って体を温めよう。

「1、2、3、4、回ってキュッキュ」

石原さんのレッスンのときに使うフレーズを小声で呟きながら踊ってみる。

おお、案外踊りやすいかも。

地面が細かい砂利だから、ヒールでもいける。


この時は、少しだけ動きを復習して、すぐに自宅へ帰るつもりだった。

しかし、公園での自主練は、初回にして予想外の展開を迎える。

練習開始から約15分。

男女の集団の話し声が近づいてきて、私はとっさにタコを模した滑り台やトンネルが合わさった遊具の裏に身を隠した。

だって、イイ年した女が一人で

「キュッキュ」

なんて呟きながらお尻を振って踊っているところを見られるのは、さすがに恥ずかしすぎる。

私は少し上がった息を落ち着けながら、冷たい遊具に背中を預け、彼らが通り過ぎるのを待つ。

しかし、この行動が自分の首を絞めることになった。

あろうことか、彼らはこの公園に入ってきてしまったのだ。

私は彼らがここに辿り着く前に、何食わぬ顔をしてそそくさとこの公園を出るべきだった。

何を話しているのかはよく聞こえないが、独特の下品な笑い方や語尾のイントネーションから、いわゆるヤンキーと呼ばれる人種であろうことは予想がついた。

ヤンキーご一行様は総勢6名くらいで、音から判断すると、ブランコのあたりにたむろしているようだ。

タバコの匂いと女の子の香水の香りが風に乗って私のところに漂ってくる。


この小さな公園には、このタコの遊具の他に、ブランコと鉄棒、そしてベンチがいくつかあり、外周はツツジなどの灌木で囲まれている。

出入り口は、彼らのいるブランコのすぐ近くにしかない。

よって彼らに気付かれずに出入り口から出るのはほぼ不可能だ。

路地はたったの2メートル先だが、いくら低くてもこれらの木を飛び越えることはできない。

パキパキ踏みつけて道に出るような真似もできない。

晴海に助けを求める?

いや、この程度のことで夜中に呼び出すなんて非常識すぎる。

じゃあ堂々と出て行ってみる?

いやいや、無理だ。

怖い怖い怖い。

考えている間に、温まりかけていた体はどんどん冷えていく。

とりあえず携帯電話がマナーモードであることを確認し、音を立てないよう細心の注意を払って脱出方法を考える。

しかし考えても考えても、方法は見つからなかった。

「ぎゃははははは!」

「おめーガキかよ!」

彼らがやって来て約30分。

いまだ盛り上がっている彼らは、公園を駆け回り始めた。

ぐぁんぐぁんぐぁん……

背中に振動を感じ、血の気が引く。

こ、こっちに来た!

ズザザザー……

「ぎゃはははは!」

とうとうタコの滑り台まで使い始めて、ビクビクしながら息をひそめる。

いくら裏でも、こちら側を覗かれたら見つかってしまう。

神様……!






この夜、私が自宅に戻れたのは0時過ぎだった。

あの後、彼らに見つかることはなかったが、結局彼らが帰るまで公園を出る方法を見出せなかった。

約1時間半、私は遊具の裏で冷たい風に吹かれながら、ひたすらかじかむ手をすりあわせていた。

手足は冷えるしお腹は空くし、ヒマだし怖いし、とにかく寒いし。

もう二度と夜中に一人で公園なんか行かないと誓う。

明日も仕事だ、早く寝なければ。

私は時間短縮のため、風呂を熱めのシャワーで済ませ、食事も冷蔵庫の中のヨーグルトで腹を埋めるにとどめて眠りについた。

そして翌朝。

目が覚めると起き上がれないというオチである。

当然の結果だが、風邪を引いたのだ。

何年か前に翔平が買ってきてくれた体温計を使ってみる。

『39.4℃』

もう何から何まで最悪だ。

工場長と詩帆さんに、体温計の画像を添付したメールを作成。

『すみません、熱を出してしまいました。本日は休ませていただいてよろしいでしょうか』

すぐに『お大事に』と返信を受け、その返信でお願いしたい業務の引き継ぎをする。

熱に浮かされているからか、後で本文を読み直すと誤字のオンパレードだった。