「はぁっ?」
何なの、その不公平な取り引きは。
今の今まで無害そうに振る舞っていたくせに。
急に男の牙を剥いて、一気に私を追い込んだ。
すっかり萎んでいた危機感が再び膨らんで、私の心臓はドキドキ暴れだす。
「だって、重い思いして持ち帰ったのに、ヒロインやってもらえないんじゃあ、一発くらいヤッとかないと割に合わないっしょー」
その論理を至極当然のように言って、私がかぶっていた掛け布団を勢いよくめくる。
私は体中を二つの意味でヒヤリとさせ、ギュッと身を硬くして構えた。
「何それ! 絶対やだ!」
別に私が連れて帰ってって頼んだわけじゃないのに。
「じゃあ、素直にヒロインやればいいじゃん」
温かい手が挑発するように私の髪を梳く。
「それもやだ」
ミュージカルとか、劇団とか、わけわかんない。
私が合コンで求めていたのは彼氏候補との出会いであって、断じて舞台のオファーではない。
視界には私に跨がる生の肉体美。
危機感と艶かしい光景に、思わずごくりと固唾を飲んだ。
「ふーん、じゃあ……遠慮なく」
「ひゃっ……!」
トップスの裾から彼の手が差し込まれた。
私は体を捩ったが、脇腹を撫でるように上へと這い上がってくる。
許可を得ていない相手に対しての遠慮など、まるで感じられない。
間もなくしてブラに包まれた胸に辿り着いた。
「うわっ、意外と大きい」
笑みを浮かべた彼の右脇腹を……
「やれるもんならやってみろ!」
私は左手で思いきり打った。
「うっ……! ゲホッ、ゲホッ」
途端に右へ転がり、苦しそうに咳き込み、うずくまる晴海。
私はベッドから出て彼から離れた。
こいつの近くにいると危険だ。
「明日香……レバーブローは……ナシだろ……」
「呼び捨てにするな年下のくせに!」
上半身が裸だったから、より正確に気持ちよくヒットすることができた。
何ならもう一発お見舞いしてやろうか。
次はストマックに決めてやる。
私は再び拳を握りしめた。
察した晴海は慌てて手を出し、防御の態勢を取る。
「ストップ! ストップ! もうやんねーから落ち着いて!」
涙目になっている晴海の顔を見て、私は拳を下ろした。
「女をナメんな」
護身のために、基本的な急所くらいは心得ている。
「いってー。冗談だよ。マジで殴ることないだろ。しかもレバーって……」
「マジで触るからでしょ」
「本気だってこと見せたかったんだよ」
「知るか! 帰る!」
私はテーブルの横に放られているコートを手に取り、バッグを探す。
バッグはベッドの横に転がっていた。
それを取ろうとベッドに近付くと、苦痛から復活した晴海が私の手首を掴んだ。
「待って」
「何よ」
「明日香」
「年下のくせに呼び捨てにしないでってば」
「それにしても……酷い顔だよ」
バカにしたように笑った晴海に、私は再び拳を握って見せた。
すると彼は慌てて握った拳を掴む。
「違う違う! メイク落とさずに眠って顔ドロドロだって意味だよ。頭も寝癖で爆発してるし、シャワー貸すから女子力取り戻して帰れば?」
確かに、目元がパリパリするし、顔全体が重い。
鏡は見ていないが、アイラインが滲んで、とんでもない顔をしているだろうことは想像がつく。
髪だって、このまま出掛けるのは恥ずかしい状態に違いない。
シャワーを浴びられるのであれば、是非とも浴びたい。
……でも。
「あんたのシャワーなんか借りたらどうなるかわかんないじゃん」
「うちは脱衣所に鍵が付いてるし、洗いたてのタオルもあるし、洗面台の下の棚にメイク落しと使い捨て歯ブラシもあるから、自由に使っていいよ」
ずいぶん準備がいい部屋だな。
「……ほんと? 入ってきたりしない?」
「しないしない。もうパンチは懲り懲りっす」
だったら……お言葉に甘えようかな。
私は手にしたコートを晴海に投げつけ、まだ湿気と石けんの香りが残る浴室へと向かった。
脱衣所には、本当に鍵が付いていた。
ガチャッとわざと音を立てて施錠し、自分でドアノブを捻って、開かないことを確認する。
二段になっている洗濯籠の上段に、洗いたてだと思われるバスタオルが数枚。
洗面台の下の棚には、本当にクレンジングオイルと個装された使い捨て歯ブラシがあった。
こんなものが常備されているということは、あのチャラ男、恐らく女を連れ込むことにかなり慣れているのだと見受けられる。
やっぱりモテるのだろうか。
洗面台の鏡を見ると、なるほど本当に酷い顔、酷い頭をしている。
私は遠慮なくクレンジングオイルを多めに手に取り、しっかりと顔に塗り付け、丁寧に乳化して洗い流した。
案外キレイにしている浴室でシャワーを浴びて、柔軟剤のいい香りのするバスタオルで水気を拭う。
洗った服を着たいところだが、仕方なく着てきたものに袖を通す。
布地から昨日のカラオケボックスのにおいがして、嫌な気持ちがした。
仕上げに洗面台にあるドライヤーで軽く髪を乾かし、何とか外に出られる状態が完成。
本当はヘアムースでウェーブを整えたいところだが、今日は仕方がない。
洗濯機のそばに使ったバスタオルをかけ、再び晴海の部屋へ。
「あ、お帰りマイヒロイン」
扉を開けた瞬間、ふわりとコーヒーの香りが漂った。
ちゃんと上半身にも服を着た晴海が微笑んでいる。
テーブルにはカップが二つ。
どうやら私の分まで淹れてくれたらしい。
「……ありがと」
「今うちには食料がないから朝飯ってわけにはいかないけど、これ飲みながら落ち着いて話をしよう」
とりあえず淹れてくれたコーヒーを、出されたまま一口。
ブラックは苦手だけれど、我慢して飲み込む。
晴海のカップをチラッと覗くと、彼のコーヒーも黒いままだった。
「話?」
「そう、お互いの話」
砂糖とミルクをちょうだい、なんて今更言いづらい。
我慢したまま、もう一口。
「私、特に話すことないんだけど」
酔った私を介抱して泊めてくれたのはありがたいけど、もう会うつもりもないし。
私の表情からそれを察した晴海は、すがりつくように捲し立てる。
「いや、ほら。こちらの情報を何も与えずにヒロインお願いしてたからさ。返事がイエスでもノーでも、とりあえず話くらい聞いてほしいんだ」
熱意がすごい。
そこまで私を気に入ってくれたというのなら、悪い気はしない。
「なるほど。劇団とかミュージカルとか、私にとっては得体の知れないものだもんね。話くらい、聞いてもいいのかも」
そう言うと、晴海はパァッと目を輝かせた。
わかりやすく喜んでくれるから、やっぱり悪い気はしなかった。
「ちょっと待ってて」
晴海は立ち上がり、クローゼットから服屋の紙袋を取り出す。
袋からは、ガサッと重そうな音がした。
中には様々な書類が収められているように見えた。
よく見てみると、ハンドメイド感の強いチラシやパンフレット、台本のようだ。
そして公演した舞台の映像が収められているであろうDVDもある。
演目ごとに透明のクリアファイルへと収められており、晴海の几帳面さがうかがえた。
目に入るそれらには必ず、次の言葉が印字されている。
「劇団エボリューション?」
「そう、俺たちの劇団の名前だよ。発展とか進展とか、そういう意味」
「ふーん」
手にとってじっくり見てみると、チラシやパンフレットはキレイな状態で保管されているが、台本だけはボロボロだ。
普通のコピー用紙に印字して製本されているそれは、太いホチキスで留められたところなんかは穴になっていて、上からセロハンテープで何度も補強されている。
中は書き込みがたくさんされていて、本気度がうかがえる。
私が昔やっていたことと雰囲気が似ていて、懐かしい感じがした。
「俺さ、大学卒業したら、就職で東京に引っ越すんだ。だから今回の舞台は俺の卒業公演ってことで、俺が主演を務めることになったわけ」
「だからって、どうして部外者の私がヒロインなの? 女の子なら劇団にもいるじゃない。この子なんか、若くて可愛いし」
集合写真の中から選んで指をさすと、晴海は含みのある笑みを見せた。
どうやらこの子は彼の求めるヒロインではなかったらしい。
「手当たり次第合コンに参加しまくってまで、外部からヒロインをスカウトしたかったのには、理由があるんだよ」
手当たり次第参加しまくってたんだ。
昨日はそのうちの一回だったわけね。
「理由?」
「そう」
晴海は袋から、最新のものだと思われるDVDを取り出した。
表には今年の夏の日付が書かれている。
「ちょっと見てみる?」
「うん」
晴海は「うちにはプレイヤーがないから」と苦笑いをして、ノートパソコンにディスクをセットした。
間もなくして、再生が始まる。
すると彼は、すぐさま早送りをした。
「えっ? 見ないの?」
「見てほしいのは、ここから」
ポチッとトラックパッドをタッチ。
再び再生された映像には、曲に合わせて団員だと思われる女性が滑らかに踊っている。
この曲、オリジナルだろうか。
機械で作った音だけど、なかなかのクオリティだ。
そしていよいよ歌が始まって——……
「俺が財布すっからかんになるまで合コンに通い詰めた理由、わかった?」
晴海の問いに、私は静かに首を縦に振った。
「何ていうか……アレだね」
「ハッキリ言っていいよ」
じゃあ、遠慮なく。
「……下手だね」
音痴というわけではない。
マイクを通してエコーをかければ、それなりに上手く聞こえると思う。
しかし、この舞台ではマイクを使っていない。
歌は生声で客に届く。
生歌はごまかしが利かないから、悪い部分も全て聞こえてしまっていた。
「この子、うちの中でも一番歌が上手い子だったんだけど。それでもこのレベルなんだ」
なるほど。
つまり彼が求めているのは、私の歌唱力というわけか。
「ボイトレにでも通ってみたら?」
「みんな仕事してたり学生だったり、忙しい中で劇団やってるから、なかなかそこまでできなくて」
素人ばかりの小劇団だと言っていた。
ボイトレをするにしても自腹になるだろうし、この先プロの役者としてやるつもりがないのなら、お金を出してまでやるメリットはないのかもしれない。
だけど、上手いに越したことはない。
「それに……」
「それに?」
タン、とキーを打ち再生を止めた晴海は、私の目をしっかり見据えた。
「俺が明日香の歌に惚れた」
惚れただなんて、大袈裟な。
言われなれない言葉に、むずかゆい気持ちになる。
歌が上手いことは、私のコンプレックスだ。
それは「カラオケ」というメジャーなコミュニケーションの場において、私の歌唱力が他の人の邪魔をしてしまうからだ。
私の歌を喜んでくれる人よりも、嫌な気持ちになる人の方が多いと気付いてからは、極力人の前では歌わないようにしてきた。
だけど、歌が上手いことは、私の大きな自慢でもある。
もし、コミュニケーションの場でなければ。
歌い合うのではなく、私が一方的に聞かせるだけであれば。
そう、例えばステージの上ならば。
観客の心に響くような歌を歌えるだろう。
自信過剰かもしれないけれど、そう勘違いできるくらいは訓練してきたのだ。
「よく簡単にそういう言葉が出せるよね」
「それだけマジなんだって。あんな歌声、初めて聞いたよ。明日香、素人じゃないだろ。何かやってる?」
「昔、ちょっとね」
「昔? いつ? 何?」
正直、言いたくない。
だって、全然キャラじゃないし。
「高校時代、色々と」
「高校時代? 何? 何やってたの?」
身を乗り出してきた晴海が近い。
私の答えを期待する眼差しが強い。
「ねぇ、教えて」
高校を卒業して今の会社に就職して以来、一度も口に出さなかった私の過去。
まさか、こんなところで打ち明けることになるなんて……。
「バンド、やってたの」
「バンド?」
晴海はきょとんと目を見開いた。
「ロックバンド。高校生だったけど、結構本格的にやってたの」