私が酒に弱いことを知っているともちゃんは、心配して言う。
「ちょっとたくちゃん。明日香ちゃんを酔わせてどうするつもり?」
「何もしないよー。たぶん」
「晴海ちゃんに蹴り飛ばされるからね」
「平気平気。晴海、全然こっち向いてないし」
男性側の席を見ると、タカさんに何やらプロレス技をきめられて
「ギブ! ギブ! ギブ!」
と叫んでいる晴海が見えた。
本当に、こっちを気にしている素振りはない。
私が卓弥さんの半径2メートル以内にいるというのに、今日は割り込んできたりしない。
「つーか俺、この後すぐ海外に飛ぶから持ち帰り不可だし」
「あ、あのスーツケース、たくちゃんのだったんだ」
「そうそう、俺の」
いいなぁ、海外。
詩帆さんも今年の年末年始は海外に行くって言ってたな。
今からじゃ間に合わないけど、私もどこか旅に出ればよかった。
「卓弥さん、おかわり!」
晴海に聞こえるくらい、大きな声で言った。
聞こえているはずなのに、晴海は私に背を向け、イジられて笑っている。
「はい、よろこんで」
「明日香ちゃん大丈夫?」
「大丈夫」
もう知らない。
晴海なんて、知らない……。
ボフッ——……
体が跳ねて、少しだけ目が覚めた。
この感触、におい、覚えがある。
間違いなく、我が家のベッドだ。
掛け布団を掴み、安心して眠りの世界へ入ろうとしたとき。
「眠るな。起きろ」
不機嫌な男の声がした。
私はここでやっと異常を感じて目を開けた。
直射する明かりが眩しい。
体をくねらせ、明かりから目を背けながらゆっくり視力を取り戻す。
次第に明るさに目が慣れてきて、不機嫌な男の正体が明らかになってきた。
「ん……? はる……み?」
晴海はベッドの脇で腕を組み、私を見下ろすというよりは睨み付けている。
意識がハッキリしてくると、だんだん記憶もよみがえる。
私、またやっちゃったのか……。
劇団の忘年会で、おばちゃんたちに絡まれて、ともちゃんに助けてもらって、晴海に避けられてムカついて、卓弥さんに飲まされて。
ともちゃんと卓弥さんを入れて三人で話していたのは何となく覚えているけど、いつ眠ってしまったのかまでは思い出せない。
どれくらい眠ってたんだろう。
外はもう暗いみたいだ。
「明日香、酒飲んだろ。禁止だって言ったのに」
説教を垂れる気か。
対抗意識の燃えた私は、だるい体を無理矢理起こした。
「晴海もいる会場だったもん。今日は無効でしょ」
私が飲んでても止めなかったじゃん。
大きな声でおかわりって言っても無反応だったじゃん。
避けられてムカついてるのはこっちだっつーの。
どうしてあんたが怒るのよ。
負けじと睨み返す。
「だからって、弱いくせにガブガブ飲んでんじゃねーよ」
「飲みたい気分だったのよ。あんたのせいで!」
何なのよ。
今日の晴海、ちょっとおかしい。
何をそんなにムキになってるの?
「俺のせいって何だよ。性懲りもなく潰れて、ここまで運んでたのが卓弥さんだったらどうしてたわけ」
「それはっ……」
もし私が潰れたら、きっと晴海がどうにかしてくれる。
そんな期待があったなんて言えない。
「潰れれば俺がここに運ぶこと、期待してたんじゃねーの?」
心を読まれたのかと思った。
「そ、そんなわけないでしょ」
「図星じゃねーかよ!」
晴海は怖い顔をしたまま、私をベッドに押し倒し、跨がって、両腕を押さえつけた。
あっという間でわけもわからなくて、自分が際どい感じに組み敷かれていると気付くまでに、しばらくかかった。
認識した途端に心臓が暴れだす。
前にも晴海の部屋でこんな体勢になったけれど、あの時とは全然違う。
晴海の顔が全く笑ってない。
本気かもしれない。
私の鼓動は手首の脈を伝って、彼にも届いているようだ。
「晴海……?」
ふと押さえつけられていた両腕が解放された。
晴海は私に跨がったまま、両手で自分のマフラーを外し、ダウンジャケットを脱ぎ捨てた。
カットソー越しに体の凹凸が見える。
くぼんだ鎖骨が照明で艶かしい陰影を描いている。
どうしよう、晴海がたまらなく色っぽい。
ドキドキしすぎて苦しい。
「明日香。なんつー顔してんの」
「え?」
「両手空いてるのに、俺を殴らなくていいの?」
ハッとした。
殴ろうなんて、考えもしなかった。
私はこのまま晴海と男女の関係になるつもりでいた。
「チッ……!」
晴海は舌打ちをして、着ていたカットソーと中のTシャツを一気に脱ぎ捨てる。
見惚れるほど私好みの上半身が、余計に私の冷静さを奪っていく。
「最初に俺んちでしたみたいに、思いっきりここに一発入れてみろよ」
自分の右の脇腹を指差す。
だけど今の私には、拳すら握れない。
力なく彼のそこに触れ、筋肉の凹凸に手を這わす。
得意のレバーブローは不発に終わった。
「できないんだ。っていうか、しないんだ」
晴海はそう言うと、抵抗しない私の体を雑に起こした。
私のコートをやや乱暴に脱がし、その下のニットも剥ぐ。
上半身はキャミソールとブラだけだ。
暖房の効いていない部屋で腕とデコルテをさらけ出され、さすがに鳥肌が立つ。
それでも、私は黙って晴海に従うつもりだった。
「ここまでされて、嫌じゃないのかよ」
嫌じゃないよ。
晴海だもん。
だって……悔しいけど、認めざるを得ない。
晴海が好きだ。
「晴海、今日はなんかおかしい。ずっとおかしかった」
いつも二人のときは意地悪だけど、意地悪の方向性がいつもと違う。
「そうだな。俺、おかしいと自分でも思う」
「どうして?」
「さぁな」
「おととい男連れで帰ってきたから、怒ってるの?」
そう問うと、晴海は微かにビクッとした。
「うるさい。黙れ!」
再び掴まれた腕。
さっきよりずっと強い力だったけれど、視界いっぱいに迫ってきた彼の顔のせいで、痛みなど感じている余裕はなかった。
「はるっ……!」
私の言葉は晴海の唇に奪われてしまった。
反射的に目を閉じると、まつ毛が彼に触れた。
晴海の温かい手が私の腕を離れ、背中に回る。
私も無意識に肘を曲げ、彼の腰に手を添えた。
「ん……」
晴海から力が加わって、私は後ろに倒れる形で再び枕に頭を置いた。
一呼吸置いて、もう一度キスをする。
このキスに私の意思が伴っていることがわかった晴海は、舌を差し、再び私の反応を窺う。
少し応えると、それじゃあ遠慮なくといったふうに激しさを増す。
晴海特有の香り、生肌の感触、酒気を帯びた吐息、二人の身体がシーツに擦れる音。
そして私の名を呼ぶ、晴海の掠れた声。
何もかもが私を女にしていく。
互いを探り合う初々しい攻防に、どんどん鼓動が強くなる。
私、きっとこのまま晴海とするんだ。
そう認識しただけで、胸の奥から感情が溢れて止まらななくなる。
「晴海っ……」
胸が張り詰めて息苦しい。
早く満たされて楽になりたい。
私は自分が思っていたよりずっと、晴海に恋い焦がれていたようだ。
ちゅ……と小気味よい音を立て、晴海の唇が私から離れる。
晴海が数秒間、目を閉じて苦しそうな顔をしたかと思ったら、直後、私の視界が何かに奪われた。
掛け布団だ。
「ほらみろ、だから飲むなって言ったんだ」
ミシッと横で音がして、体が軽くなる。
晴海はベッドを降りてしまった。
掛け布団から顔を出すと、彼はベッドに背を向け、脱いだ服を身に着けていた。
しないの?
……なんて、恥ずかしくて聞けなかった。
するつもりがないから着ているのだ。
聞く意味がない。
私は劣情に焦がれた自分の体を抱き締め、奥歯を噛み締める。
「ごめん。俺、相当酔ってる」
「うん」
酒のせいにされてしまった。
目の奥がツンと痛み、涙腺が緩む。
「頭冷やしながら帰るわ」
嫌だ、帰らないで。
私と一緒にいて。
強くそう思ったけれど、気持ちが口から出ていかない。
晴海は私を視界に入れることなく、ダウンジャケットを羽織りマフラーを巻いた。
苦しい。
晴海は平気なのだろうか。
それとも、さっきのキスがお気に召さなかったのだろうか。
私ではダメだったのだろうか。
晴海の気持ちが全然わからない。
わからなすぎて、聞くのも怖い。
やっぱり私は臆病者だ。
「ちゃんと戸締まりしろよ」
晴海はそう言い残して、さっさとこの部屋から出ていってしまった。
扉が閉まる音が部屋と胸に響き、だんだん遠くなる足音が切ない余韻を演出している。
自分の唇に触れると、涙が一気に溢れてきた。
さっきのキスは、何だったの?
酔ってたからって、それだけなの?
部屋にはまだ晴海のにおいが微かに残っている。
ベッドを降りて、深呼吸。
皮膚から、肺から。
火照った体に冷たい空気を取り入れ、のぼせた頭から冷静さを取り戻す。
言われた通り、ちゃんと扉を施錠した。
私たちは主人公とヒロインだ。
しかし本物の恋人同士ではない。
彼にとって私の存在意義は、自分の卒業公演を彩ることにある。
私たちの関係は、そこで終了なのだ。
舞台が終わったら、晴海は大学を卒業して、この町からいなくなる。
そしたらきっと、もう会うこともなくなるだろう。
そんな男に惚れたって、何にも良いことなんてない。
こんな気持ち、さっさと忘れなきゃ。
晴海が正気に戻ってくれて良かったのだ。
そう頭ではわかっているが、悲しい気持ちを癒すことはできなかった。
第7幕:世話焼き暴君