「はいこれ」
 唐突に渡されたのは万年帰宅部の僕には馴染みのない紙。黒々とした文字で「入部届」と書かれている。上の部長欄にはこの紙を渡してきた彼女…神崎さんの名前が書かれていた。
「入部届?なに?これ」
「つべこべ言わずに早く名前を書きなさい」
「いや…せめて何の部活かくらい教えてくれよ…」
 今年が中学校最後だと言うのに部活なんてやっていられない。いつも通りの神崎さんの強引さに少々呆れながら僕は背負っていた机から筆箱を取り出した。昼休みという事もあり教室は人が少ない。多分それを狙って神崎さんは話し掛けてきたのだろう。僕は人前だとあまり喋らないから…。計算高いというか狡猾というか…。とにかく理由を聞き出さない事には始まらない。僕は神崎さんに今まで殆どしたことがない強気に攻める、という作戦を実行することにした。
「神崎さん。いくら僕でも得体の知れない部活に入るほどお人好しじゃあないんだけど」
 顔をグイッと近付けて勇気を出して放った言葉。僕の珍しい反抗に神崎さんの眉がピクリと動く。
「じゃあ聞くけど…先週末にワークが出来てないと言って泣き付いてきたのは誰?」
「え、っと…それは…」
「その泣き付いてきた少年に快くワークを貸してあげたのに提出日当日に休んで少女にワークを返さなかったのは誰?」
 俯きがちに放たれた、あまりにも理路整然とした語り口に少しだけ怒りが込められているのが解る。これはあれだ。完全なる敗北だ。勿論神崎さんの言っているのは全て僕の事だ。僕が悪い。神崎さんを頼ったのだからこういうことがあることは解っていたのに…。素直に答えるのが一番だろうと判断した僕は潔く頭を下げることにした。
「すみません。泣き付いてきたのも僕。ワークを返さなかったのも僕です」
「良くできました。書くのはアンタの名前で書く場所はその入部届の一番下の部員欄。何か質問は?」
「ありません…」
「宜しい」
 恐怖政治ってこういうのだっけな。やむなく筆箱からシャープペンを取り出した僕は仕方なく名前を書き出すことにした。思えば昔から神崎さんに口で勝てた試しが無いような気がする。そういえば3年になりたての時にも教科書のことで助けてもらっている。その事については言及しないでくれただけありがたいと思った方が良いだろうか。詰まるところ僕は結局彼女に勝てないのだ。
「…はい。書いたよ」
「ありがとう」
 こちらを伺うことなく紙だけを見てお礼を言う神崎さんの態度には既に見慣れている。普段は本を読んでいればそれでいい、といった雰囲気の神崎さんから考えると今回の行動は全く意図が読めないが。
「で、それは何の部活なの?」
 浮かび出る事が確実の疑問を聞いていつもは固く結ばれている神崎さんの口元が若干緩んだ。僕は知っている。こういう時の神崎さんは何かを企んでいる時だ。そしてどうやら僕の予想は的中したようだ。急に輝き出した瞳がこちらを見つめると綺麗な黒髪を靡かせこう言った。
「ボランティア部。私とアンタの二人で、ね」
「…は、あ?」
 すっとんきょうとも言える声を出した僕を流石に責めようと思う人は居ないだろう。神崎さんからそんなことを言われたら誰だってこうなる。さりげなく拳を固めたのは僕の精一杯の抵抗だ。それに神崎さんが気付いたところで既に僕は神崎さんの手の内。彼女から逃れることは敵わないだろう。「なに馬鹿な声を出してるのよ」と叱責を受けたが逆に言えば「あなたこそ急に何を言っているんですか」と聞き返したくなる。細い腰に手を当てながら神崎さんは続ける。
「アンタ、人付き合い苦手でしょ」
「それとこれがどう関係してるんだ?」
「それぐらい察しなさいよ。男って本当に鈍いわね」
 これを察することが出来るというなら女性というのは全員超能力者なのでは無いだろうか。鈍い事には異論は無いがいくらなんでもこの少ない情報で理由を察するのは無理があるだろう。謝罪を口にした僕に仕方なさそうに神崎さんは答えた。
「人と関わるということはすなわち自分自身と関わること…。人と関わらないのは自分自身と向き合ってないのと同じ」
「………え?」
 一瞬彼女が何を言っているのか真面目に理解が出来なかった。放たれた言葉はどこかの哲学のようなもので凡人の僕にはその意味は理解することは困難を極める。その様子を見て神崎さんは腹を立てたらしく「だから」と言葉を繋げた。
「アンタは人と関わるのを嫌がってるけど…人と関わる事を止めた人間っていうのは自分自身と向き合う事も忘れた人間みたいなもの。だから、どんな些細な事でも良いからアンタは私以外の人間とも関わるべきよ。というか、そろそろ私から離れてくれないとうざい。私、女々しい男って大嫌いなのよね」
 …………あ。そうか。
 不意に感じたのは幼馴染みの冷たくて暖かい優しさ。胸の奥のところがキュウ…と音を立てているような気がした。目頭が熱くなってきて視界が何処からか滲み出す。泣きそうだ。彼女はいつだって大人で…僕の事をキチンと考えていてくれている。冷たい言葉で突き放してるように見えて実は誰よりも心配してくれてる。僕には解る。ウザいと貶しながらしっかりと僕を見つめ続ける彼女に僕は語りかけた。
「…神崎さん」
「なによ。別にアンタの為とかじゃあないから勘違いしないでね」
「………相変わらず不器用だなぁ」
「うるさい。アンタに不器用だなぁ、なんて感傷に浸られる程、私は暇じゃない」
 返された言葉に笑みを濁しながら神崎さんの瞳を見つめ返して続ける。
「…でも、ありがとう」
 漏れたのは本音。偽りのない言葉。頭一つ分差をつけてしまったのに未だに自分の上にいるように見える神崎さんへの感謝だ。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした神崎さんが僕の顔をまじまじと見つめたがきっと嫌がっている訳ではないのだろう。そうだ。きっと彼女は他人と向き合えない辛さを知りながらそれでも自分自身と向き合わないと生きてはいけない現実を突き付けられる前に僕に教えてくれようとしてるのだ。本当に…彼女ってやつは。確かに人と関わるのは嫌だ。けれど神崎さんが言うと何でも簡単な事に感じてしまうんだ。それが神崎さんの神崎さんたる所以だろう。強くて、優しくて、僕の全てを解っている。そうだ。神崎さんはいつだってそう。神崎さんはいつも僕の事を考えてくれていたから。
「男の癖にこのくらいで泣いてんじゃないわよ」
「ま、まだ泣いてないよ!?」
 いつも通りの喧嘩だ。またきっと神崎さんの勝ちなんだろう。でもその喧嘩が酷く愛おしく感じた。神崎さんが怒って、僕が戸惑う。それがこれからも変わらない僕達のスタイルなんだろう。自然と笑みが溢れた僕は神崎さんの瞳を見つめた。

「やろっか…ボランティア部」

 僕がそう呟くと、神崎さんのいつもより少し柔らかい笑顔が、そこにあった。















神崎さんはそこにいた。第1話 完