「………暑い。」
布団の寝具の上で汗を拭う。いつまでたっても引かない汗はTシャツを僅かに湿らせていて気持ち悪い。耐えられずに僕は身近にあった壊れかけの扇風機のスイッチを入れる。弱風が濡れた肌に当たって気持ちいい。
床に引いた布団は僕の汗でしっとりと濡れている。後で洗濯しないといけないな。溜め息が思わず漏れた。夢を見るといつも汗をかく。夏だろうが何だろうが関係無い。僕はいつだって過去に捕らわれたままの何処にも行けない籠の鳥。呆れて反吐が出る。
昔の、懐かしい記憶。目を閉じると昨日の事のようで、でも何があったかは詳しく思い出すことは出来ない。そんな曖昧なのに確実なもの。
今更中学生の頃はどうだったなんて言うつもりは無いが確かに高校に比べるとかなり楽しかったのは事実だろう。神崎さんも一緒だったし、楽しく話せる人は他にも出来た。
高校は、なんて言わなくても大体分かるだろう。目に見えない虐めや明らかなる仲間外れは当たり前になる。大人になるにつれて気の合う人というのは昔より確実に分かれてしまう。ましてや僕は私立校を受験しなくて済むようにランクを下げた高校に通っている。そうなれば気が合わない、というのは仕方ない事かも知れない。もう3ヶ月がたったというのに未だに何一つ好きになれない。中学生の頃が良すぎたせいだ。慣れない。いつまでたっても。
カタカタと音を鳴らすオンボロの扇風機を見つめながら僕は盛大に溜め息を漏らした。起きてから何回目の溜め息だろうか。流石にこのままだと直ぐに老いて死んでしまいそうになる。寧ろこのまま死ねたら…なんて思考はなるべく持たないようにしている。それこそ神崎さんは言うだろう。「死にたいと思えるのは生きるということの嬉しさを知らないからよ。生きるということの嬉しさを知らない奴が死のうとするなんてつけあがるにも程があるわ。」と、いつもの無表情で。
今も昔も変わらない正論を突き通す神崎さんは今でも僕の憧れだ。相変わらず僕は女々しい。昔に一度神崎さんは車に轢かれた事があるのだが。そのとき僕達は僕の母さんのおつかいで少し車通りが多いところにやってきていた。僕は荷物を持ちながら早く帰って神崎さんと遊ぼうと走っていた。危ないから普通に歩きなさいという神崎さんの忠告を無視して道路に飛び出したのがいけなかった。案の定僕の方へ車が突っ込んできて、神崎さんは僕を庇って、轢かれた。そんなときでもまるで自分が轢かれたかのようにオロオロしている僕とは対照的に自分が轢かれた事すら感じさせない堂々とした態度で神崎さんは自ら僕に救急車を呼ばせた。神崎さんを轢いた車の運転手は性根が腐っていたようで神崎さんを轢いた事を自覚しながらそのまま逃げていった。いわゆる、轢き逃げだ。
でもそのあと病院でしっかり治療を受けて全治二ヶ月の骨折で済んだ神崎さんは逃げていく間際にきちんと覚えていたナンバーを警察に伝えて神崎さんを轢いた車の運転手は後に逮捕されることとなった。そしてそのあと神崎さんの側で「ごめんね」と繰り返し謝る僕に「別にアンタのせいじゃないわよ。あの場で私が庇わなかったらアンタが怪我をした。私はそれが嫌だっただけ」と告げた。あの頃から、彼女は頼もしい。女々しい自分とは正反対だ。鏡みたいに。
「流石神崎さんだよ…。」
溜め息混じりにそう呟いた僕は布団からゆっくりと起き上がった。そろそろ行かないとな…。神崎さんの事を思い出してかなりの時間を労した事に気付いた僕は、脳裏に焼き付く教室な嫌な雰囲気を思い浮かべてTシャツを脱ぐ。部屋に晒された身体は細く、健康的とは言えないが運動も苦手な僕に筋肉がつくはずもない。タンスに仕舞われたYシャツを手に取り一個ずつボタンをつけていく。慣れた行為なので別にいちいちボタンを見なくても出来る。Yシャツを着終わると学生服のズボンを押し入れから取り出して履いていく。ベルトをつけてから学ランを羽織る。これでいい。
杞憂を催す行為ではない。普段から皆が行う学校へ行くための準備だ。学校に行くため…。
低迷した思考を察知したかのように途端に激しい音を扇風機が鳴らし始めた。僕が慌てて振り向いたとき、扇風機のファンは回転を伴いながら上空へ煽られた。そして天井に当たるとそのままの勢いで僕の頭に突撃をかました。派手な音がして僕の頭は反動で後ろのめりになった。
「ぐはぁっ!!」
いたた…。どうやら今日は厄日のようだ…。
情けない悲鳴を上げた事に後悔しながらちょっとだけ思う。僕が何かをしようとするといつも何らかの邪魔が入る。この手は腐り落ちた脱け殻のようで欲しいものには少し届かない。人間そんなものなんだろうか。
痛む頭を抑えながら僕は鞄を背負い、iPhoneをポケットに入れる。とにかく急がなくてはならない。僕は扇風機のファンをテーブルに適当に置いてから部屋を後にした。その時背中に感じた悪寒はきっと気のせいだろう。何やら怒られそうな予感を振り切って僕は靴を履いた。早く家を出ないと外で彼女が待ってる。いつもと変わらない無表情で家の前に立って。「遅い。」と、また僕を叱ってくれる。
僕の大切な幼馴染みが。
急いでドアを開けると案の定彼女はそこにいた。玄関先で静かに本を読む彼女は小さいがとても美人だった。立っているだけで絵になる。そのモナリザにも匹敵する彼女がこちらに気付いたようで「遅い」と小さく呟いた。やっぱりね。
小鳥が鳴いているのが聞こえる。ああ、爽やかな朝だ。彼女に会うだけでこんなに気分が違うのか。先程までの杞憂はどこへやら。そんな僕の事を「恐るべき単細胞」と称した事があった彼女だが、そういう所が僕の短所でもあり、長所でもある。と、彼女が言ってくれたのだから間違いない。彼女の言うことはいつも正しい。だから僕は彼女と居ると楽になれるんだ。いや、これは余計な話だろう。僕は軽く微笑んでいつも通りの言葉を口にした。それを聞いて彼女も少しだけ笑った。それが僕達の日常だ。

「…おはよう!神崎さん!」

神崎さんはいつもそこに、僕の隣にいた。













神崎さんはそこにいた。序章 完