ゴムマスクの穴から覗く双眸は大きく見開かれ、口は金魚よりもたどたどしく、開いたり閉じたりを繰り返している。当然ことに及ぼうなどとは全く思っていないだろうし、それどころか声をだすことすらままならないといった様子だ。互いにかちんと固まったまま、響子と男はたっぷりと見つめあっていた。

 ……このままではらちがあかない。先に行動したのは響子の方だった。

 分からないことは多々あれど、どうしてこんな体勢になってしまったのか、その一点については、響子は正確に把握していた。おそらく何も分かっていない男のほうが、混乱の度合いは大きいに違いない。だから響子の方から声をかけた。

「えーと、ひとまず。動けますかね、お兄さん」顔が見えないから年齢が分からない。おじさんと呼ぶのは止しておいた。「もし動けるなら、一旦退いてもらえます?」

「あっ、」男が小さく声をあげた。「すまない、その、いま退くから」


 そのとき、響子の頭のなかに、雷が落ちた。


 なんだ、この、イケメンボイス!?


 ノイズの一切ない、澄みきった低い声。それでいて豊かな厚みを持つ男の声は想像を絶する美しさを以て、響子の心臓を鷲掴みにした。天使か、と口走りそうになったのをすんでのところで思いとどまる。響子は趣味であらゆる音楽を聞きかじっているけれど、こんな響き方をする声は聞いたことがない。しいていえばオペラ歌手の声に近い気もするが、あれは技術だ。技術は尊ばれるべきものだと思うけれども、男の声は修練によって高みに至った声とは全く別種のものだった。男はただ、ふつうに喋っただけ。それだけで彼の声は、極上の楽器のように空気を震わせる。

 男の不審者ぶりも、いまの状況も。何もかもを忘れてしまうほどに、耳に残る彼の声は甘かった。