ミシィは、旅に出た。

 これまでの人生で、一度も旅なんてものはしたことはない。生まれて初めてのそれは、最初の半日でもう十分おなかいっぱいだった。

 街道をひたすら都から離れた方向に歩いているため、村と村の間の距離がとても長い。村人に、女の足では丸一日歩いても到着出来るかどうか分からないと言われたが、どうしても都の方角には行きたくなかった。

 村に住めなくなって出て来たと、ヤールに言いたくなかった。そこは姉弟子の自尊心である。弟弟子を頼りたくなかったし、もし頼って断られたら、きっともうミシィは立ち直れないだろう。

 そんな無様な自分は見たくなかった。重い背嚢が肩に食い込み、足も疲れて痛くなってきたけれども、それでもミシィはヤールから、より離れる道を進もうとしていた。

 寒くない季節で良かったと、いまは心底この初夏という季節に感謝した。しかし、やはり日暮れまでに次の村に辿りつくことが出来ず、ミシィは野宿をすることになる。

 もう足がパンパンで、これ以上とても歩けそうになかった。荷物から固形の樟脳をひとつ取り出し足に塗ると、すぅっとして心地いい。樟脳は熱に非常に強いため、初夏の温かさくらいでは溶けることはない。携帯用の鎮痛・消炎剤としても有能だった。

 野宿も初めてだったため、火を炊くという発想もなく、彼女はただ街道側の林の木に背中を預けて、固いパンをひとかけらかじって夜を越そうとした。

 昼間の暑さが嘘のようにひんやりとした風が吹きぬけ、地面が夜露でしっとりとして冷たくなっていく。冬用の外套を引っ張り出して、前から毛布のように着せ掛けて、ミシィはそれらを追い払おうとした。

 遠くで獣の遠吠えが聞こえ、風が草や木の葉をガサガサと揺らす。心細いなんてものじゃなかった。家という壁で仕切られた屋根のある空間が、どれほどありがたいものなのか、ミシィは全身全霊でいま味わっていた。

 不運なことに曇り空のせいで、月明かりも期待出来ない暗闇の中、ミシィはただ縮こまっていた。大丈夫、大丈夫、こんな生活にも慣れると、自分に言い聞かせる。

 そんな彼女の耳に、幻聴と間違えようのない人の声が聞こえてくる。誰かがこんな暗い中を、たいまつ片手に背後の街道を歩いているのだ。

 一瞬、ミシィは火種を分けてもらおうかと思った。声の主がどこへ行くかは分からないが、いまの彼女の足では同行することは出来ない。しかし、火さえもらえれば少しはこの心細さがなくなるのではないかと考えた。

「今日の実入りはシケてたな。商人一人たぁ」

「まったくだ。しかも、おっさんじゃあ、アッチの相手にもなりゃしねぇ」

 しかし、木陰から出しかけた首を、即座に彼女は引っ込めた。話の内容が、あまりに物騒過ぎたのだ。こうなると、火を炊いていなかったのは、かえって運が良かったということになる。こんな暗闇の林の木陰に、誰かが潜んでいるなんて思いもしないだろうから。

 自分の口から、心臓が飛び出しそうになるのを両手で押さえたまま、ミシィは街道の男たちをやり過ごそうとした。

 そして、やりすごせるはずだった。

 木の枝を踏んで音を立てるなんて、愚かなな真似もしなかったのだ。既に座っているので、踏むのも難しい状況だったが。

 計算違いだったのは、ミシィが視線を前に向けた時、林の奥に、二つの目が爛々と輝いていたことだ。目の高さからして、四足の獣であることは十分にミシィにも理解出来た。森や林の中で怖い獣と言えば、狼や熊である。この場合は、前者のように思えた。

 ヤバイッ!

 前方の狼、後方の不審者。

 突然、ミシィは絶体絶命の危機に追い込まれた。それでもまだ、獣が去って行ってくれるのではないかと必死に期待した。

 だが、その目がのそりと一歩こちらに近づいてくる。もう一歩。臆病な草食動物が、人に近づいてくるはずがない。

 ミシィは、金色の目を見つめたままゆっくりと木を支えに立ち上がった。手にある外套を盾のように前に突き出したまま、身体をじりっと木を迂回するように後方に下がらせた時。

 ついに彼女は木の枝を踏むという、愚かな真似をしてしまった。

「何だ?」

 後方から鋭い声が上がった瞬間、獣は彼女に向かって駆け出す。

 反射的に外套を前へと放り投げ、ミシィは街道へと飛び出していた。幸い、まだどこもかじられてはいなかった。

「何だぁ、おねぇちゃんじゃないか?」

「おおっ、ついてるなオレたち」

 暗がりの中、決して味方にはならない火のあかりが向けられる。彼女の腕は、一人の男にがっちり掴まれてしまった。もう片方の男は、林から飛び出してきた獣を、無造作に剣で追い払う。

 前方の狼は去った。

「離してっ!」

「それは無理な相談だぜ」

 しかし、後方の不審者は見事に残り、ミシィは拘束されてしまったのだった。

「俺らで食った後、売っちまうか?」

「馬鹿、この辺じゃ女は売れないだろ。すぐ足がつく……食って殺すのが、一番後腐れないだろ。こんなガキ、その程度だろ?」

 大きな男たちが、頭の上で恐ろしい会話を交わす。ニヤニヤと笑うその声は、ミシィにぞっと鳥肌を立てさせた。

 食われるのも殺されるのも御免だと、ミシィは必死で暴れ、抵抗した。とにかくこの腕を振りほどければ、闇に乗じて逃げられる可能性があるに違いないと信じたのだ。

「大人しくしろ!」

 しかし、自由に暴れさせてくれるはずがない。狼を追い払った男が、彼女めがけて剣の柄を振り下ろそうとした。その硬そうな柄が、自分の顔にぶつけられる寸前で、ミシィは強く目を閉じた。

 音は、何もしなかった。

 柄が顔をぶつ音も、それこそ空を切る音さえもなくなったのだ。えっと思い、おそるおそる目を開けると、本当に目の前に剣の柄が見えて、心底彼女は驚いた。本当に髪の毛一本分くらいの距離に、それがあるのだから。

 しかし、その剣は完全に動きを止めていた。石のように固まっていたと言っていいだろう。それを持つ男の腕も身体も、ミシイの腕をつかんでいる男も同じように止まっていたのだから。

 そしてその剣の先には──フクロウがとまっていた。金色の目を瞬きもせず、ただじっとミシイを見ている。

 何が起きたのか、彼女が理解するより早く。

「ったくあのババァ、あと5年はおっ死ちぬなっつったのに」

 フクロウがそのくちばしを開いて、信じられないことに人の言葉を紡いだ。

 しかも、その言葉はイヤというほど聞き覚えのあるものだった。ただし、声は違う。フクロウのくちばしから出たのは、男の声。甲高い少年の声ではない。

「おーい、ミシイ。お前には石の魔法はかけてないから動けるだろ? いつまでも突っ立ってねぇで離れろよ」

 しかし、フクロウは当たり前のように彼女の名を呼ぶ。慌てて固まったままの男から離れて、ミシイはきちんとフクロウの方へと顔を向けなおした。

「もしかして……ヤール?」

 疑いながら恐る恐る、彼女は禁断のその名を口にした。声は違う。姿なんて、人間でさえない。しかし、それ以外の誰も思いつかなかったのだ。

「おっせ、相変わらず鈍くせぇな」

 フクロウが、まるで肩をそびやかすようにその翼を軽く上下させる。

「意識だけ飛ばすのは、わりと簡単に出来るんだけどよ……おれの生身をそこまで飛ばすと帰りがまた面倒だから、そっちに門を作る。くぐれ」

 剣の上に乗っているフクロウが、一回りむくりと大きくなった。何が起きているのか、ただ見つめるしか出来ないミシイの前で、むくむくとフクロウがふくらんでいく。

 剣の上から飛び降りたフクロウが、その足を地面に下ろした時には、ゆうに人間よりも大きくなっていた。爛々と光る金色の目が、巨大化したことにより更に迫力を増す。

「ミシイ……こいつの口に入れ」

 くぱあっと開かれたくちばしの中に見えるのは、ただの闇。洞穴にようなその開いたくちばしが近づいて来るのを恐れて、ミシイは後ずさった。

「何で逃げる、俺を信じろ」

 険しい表情のフクロウに、彼女はぶるぶると首を横に振った。

「裏切って都に行ったヤールなんて、どうして信じられるの!?」

 恐怖から逃れたかと思ったらワケの分からない事態に発展し、またしても恐怖が目の前にある。こんなすごい技をヤールが使えるかどうかが問題ではない。大きな生き物への純粋な怖さと、弟弟子を許しきれていない複雑な感情が、ミシイの判断を狂わせる。

「まーだ言ってんのか、ミシイ!」

 イラっとした声をフクロウが発するが、彼女は後ずさり続ける。

「ったく、面倒くせぇんだぞ!」

 舌打ちの後の男の声が、後半ぐにゃりと歪んだ。

 大きく開かれたフクロウの口。その暗がりの中から──赤毛の頭がにゅっと出てきた。細い管から滑り出るように、赤毛の頭と黒い布が空中で一回転して着地する。

 クセだらけの赤毛を大きく後方に振りながら、男は立ち上がる。闇夜にまぎれるような真っ黒なローブのせいで、固まった男たちの火があるにも関わらず、まるで首から上だけがそこにあるようにミシイには見えた。

 直後、彼を吐き出したフクロウは元の大きさに一瞬で縮むと、バサバサと飛び去って行く。

「よぉ、ミシイ」

 後ろに追いやったはずの長めの前髪がひと房、片目に落ちてくる。赤みがかった黒の目は、ミシイの目の前にいる男が何者か、いやというほど思い知らせてくれた。

「……何しに来たの?」

 3年の間に、憎らしいことにまたもヤールは背が伸びている。

「何って……危なかっただろ?」

 フクロウがしたように、彼は肩をそびやかす。

 救いの手を差し伸べに来たというのか、とミシイは呆れて笑いそうになってしまった。本当にヤールに救いの手を差し伸べて欲しかったのは、この時じゃなかったのだ。

「……お師匠様は死んだわ」

 この時だ。カカラとの記憶を共有出来る、たったひとりの少年に、同じ場所にいて欲しかった。一緒に嘆き悲しみたかった。

 そんなミシイへの返事は、「知ってる」という残酷なもの。

「知ってる!? 知ってるですって!? 知ってて来なかったの?」

 瞬間的に跳ね上がった頭の熱を、そのまま彼女は沸騰した湯気のように口から吐き出した。

「ああそうさ。俺だってやらなきゃいけないことがあった。ババァは死ぬのが早すぎた。俺の計画は台無しになった!」

「お師匠様って言えって言ったでしょ! そしてお師匠様を悪く言うな! この恩知らず!」

「恩なら山ほど知ってるさ! けど俺は急いでやらなきゃいけなかった! それが今日出来た。ババァの葬式に行く時間も削って出来たのが今日だ!」

 一瞬で間合いを詰めてきたヤールが、その真っ黒のローブの中から両手を伸ばす。そして低い位置にあるミシイの両肩を痛いくらいにつかんだ。

 離してよと、暴れようとした彼女より先に。

 ヤールが。

 こう言った。

「今日、俺は……国魔になった」

 ミシイは。

 彼を睨みつけて。

 こう言った。

「馬鹿! そんなことより先に、一緒に悲しんでよ! お師匠様が死んだのよ! 私たちのお師匠様が! あなたとしか悲しめないのよ、お師匠様のことは!」

 ヤールは、目を伏せて寂しげにこう答えた。

「一緒に悲しんださ……喪服と同じ色の奴が、葬式にいただろ?」

 ミシイの記憶に甦ったのは── 一羽のカラスだった。