ヤールの来る前の生活に戻っただけ。

 ミシィは、彼の不在をそう自分に言い聞かせて過ごした。しかし、7年も一緒に暮らしたのだ。彼を忘れることは出来なかったし、もはや彼がいなかった昔のこともよく思い出せなかった。

 そんな悲しい時間も、確実に一日一日過ぎていく。春が来て、夏秋冬と越えても、ヤールからは手紙一通届かなかった。勿論、ミシィも送っていない。魔法学院にいることは分かっているのだから、書こうと思えば書けないことはなかった。少なくとも、師匠のカカラは何度か手紙を送っていたので、それと一緒に封入してもらうことくらい、簡単だったろう。

 けれど、そうしなかった。あんな出て行き方をした弟弟子に、どうしてこちらから手紙を送らなければならないのかと意固地になってしまったのだ。

 ヤールが出て行って、3年たった。ミシィも16歳になり、やっぱり余り身長は伸びなかったが、それでも日々穏やかに暮らしていた。

 そんな生活は、カカラがついに老いに勝てずに倒れたことにより、次第に終焉に向かっていく。何の病気でもないため、ミシィが用意した薬はどれも効果を示すことなく、日々弱っていく師匠をただ必死で看護した。

 心細く、悲しく、彼女は何度もいまここにいないヤールを恨んだ。けれど、もはや手紙を書く余裕はなかった。他の町や村との手紙のやりとりも、村魔の能力のひとつなのだ。その村魔のカカラは、もはや魔法を使うどころの話ではなかった。

 16歳の冬に、ついにカカラは息を引き取った。彼女の師匠が、村人により手厚く葬られる。神妙な顔をしたカラスが、近くの木にとまったままずっと葬儀を見ていて、カァと一声鳴いた。

 葬儀の後、ミシィは村の長に今後のことを語られた。次の村魔が来るまでは、いまの家に住んでいていいと。彼女は薬を作ることが出来、魔法こそ使えないものの、村魔に似た仕事が出来たからだ。カカラに教わった技術が、首をつなげてくれた。

 それから、ミシィは一人暮らしとなった。

 冬の寒い間は、多くの薬草は育たない。それでも、楠の葉は生い茂っている。それらを集めて樟脳を蒸留している間に冬が終わる。

 春になれば忙しい。彼女は、ひっそりと落葉し新しい葉と入れ替わってゆく楠の下を駆け抜けて、毎日薬草集めに奔走する。干し、煎じ、蒸留し、彼女は次々と薬の在庫を作っていく。

 村に薬を売りに行き、食料やお金と交換してもらう。冬物をしまい始める頃には、樟脳の入った防虫剤がよく売れる。冬の間にたくさん作っておいたそれを売って、ミシィはいつもよりは懐があたたかくなっていた。

 ヤールが出て行って、カカラと二人の生活に戻ってそれが当たり前になったように、このままミシィが一人の生活を当たり前にしようとした頃──家の扉が叩かれた。

 ヤール!?

 ミシィは、その予感に心臓が大きく跳ねた。彼が帰ってきたに違いない、と。罵詈雑言をぶつけ、ひどい言葉でなじってやろうと、彼女は勢いよくその扉を開けると。

「やぁ……君がミシィ……さん?」

 二十代くらいの青年が、そこに立っていた。ヤールのように赤い髪でもなく、ヤールのように生意気な顔でもない。静かで穏やかそうな男性だった。

「今日からこの村の村魔になった、オルガだよ。村長が、ここに住むようにって」

 扉の外を、オルガと名乗った男が視線で指す。そこには、村の長が少し離れて立っていた。ミシィに、言葉をかけづらそうにしている姿を見て、彼女は全てを理解した。

 ここを、出て行かなければならない日が、来たということだ。

 女の村魔であったならば、まだ助手としておいてもらうという可能性もあるかと考えていたが、そんな望みも断たれてしまった。

 しかし、オルガという男は、一応こうは言ってくれたのだ。

「僕には決めた相手はいないから、その、もし君にその気があるなら、結婚という形で円満に残ることも考えられるよ」と。村長に頼まれたのか、結婚というものに乾いた思考を持っているのか、それとも同情した挙句の苦肉の策なのかは、ミシィには分からない。

 ただ彼女は、「いいえ」と答えた。

 家の引渡しを明日ということでお願いし、ミシィは荷造りを始める。薬品をより分け、持っていけるだけ背嚢はいのうに詰め込む。とりあえずは、この荷を売りながら村を回って、女性の村魔を探して助手の職を得ようと思ったのだ。それくらいしか、ミシィには考えつけなかった。

 あらかた荷造りが終わり、彼女はさして変わらぬ古い家の中を眺める。ここに三人で住んでいた時が、一番幸せな時期だったと、今なら痛いほど分かる。ヤールが去り、カカラが亡くなり、そしてついにはミシィもここを出て行くこととなった。

 彼女が別れを言う相手は、家だけではない。荷物を置いて立ち上がり、彼女は家の外に出た。

 森へ入り、彼女の目の色と同じ葉を繁らせる楠の前へと行く。

「あなたで樟脳を作るのも、もうおしまいね」

 巨木の固いひび割れた皮に触れ、真下から首が痛いほど見上げる。葉の隙間からチラチラと日差しが入ってくるこの景色が、本当にミシィは好きだった。

 ヤールに言わせれば、「そんなデカブツに抱きついて、何が楽しいんだ」だったようだが。そんな弟弟子の声が頭の中で再生され、彼女は家やこの楠、そしてこの森のあちらこちらにカカラとヤールの記憶が溢れていることを思い知る。

「年下のクセに生意気でさぁ、本当に参ったわ」

 楠にくっついたまま、ミシィはヤールのことを楠にぼやいた。

「魔法が使えるからって偉そうに。お師匠様に手を貸すのは、最後まですっごいヘタクソなままで」

 しわがれて細い枯れ木のような手を、ミシィはいつも支えたものだった。それでもカカラの手は温かく、彼女は好きだった。

 そんなことを思い出していると涙が出そうになって、ミシィは楠から離れた。泣いたところで、思い出したところで、明日からの彼女の生活が楽になるわけではないのだ。

 感傷的な気持ちを振り払い、彼女が楠に背を向けて家に戻ろうとした瞬間、とても強い風が目の前で渦を巻いた。

 埃が舞い上がり、ミシィは強く目を閉じる。

「ぺぺっ……もう、口に入っちゃったじゃない」

 顔についた埃を手で拭って、彼女はようやくにして楠の葉と同じ色の目を開いた。

 そんな彼女の目の前には──先ほどと何ら変わらぬのどかな森の景色が広がっているに過ぎず、何故かミシィは笑ってしまう。

 ただ狐が一匹、遠くを走り去って森へと消えて行った。