演劇を勧められた後も、わたしは喫茶店でいつものようにコーヒー1杯で数時間ねばっていた。マスターもそれ以上何も言わなかった。わたしもいつものように本を読んで時間を過ごしていた。
 喫茶店のドアが開き、マスターの「弘君、こっちこっち」という言葉でわたしの横に見たことのない細身の男の子が座った。わたしは、喫茶店に来る生徒はだいたい覚えているはずだったのにその生徒に見覚えはなかった。
「こんにちは」
「こんにちは? あんた出身どこ?」
 大阪では、いわゆる関西弁というやつが幅を利かせている。わたしも大阪を離れ1年以上経ち、今では少し抜けてきたが、当時はバリバリの関西人。弘のアクセントに違和感があった。
「東京です。今月大阪に来て、ここに転入しました。向こうで演劇をやっていたんで、ここでも続けたかったんですけど、ここに演劇部ないみたいで……。それで、演劇部作りたいということでおばさんに相談したんです」
「そうだ、弘くん、今度脚本の原案持ってきてくれると言ってたけど持ってきてくれた?」
「あっ、はい」
 そう言って、弘は真新しい高校の指定かばんからクリアファイルを取り出しマスターに渡した。マスターはそれに一通り目を通した。
「まだ手直ししたほうがいいところたくさんあるね。地の文の入れ方とか赤入れてあげようか」
「いや、赤はいいです。うまい脚本じゃないかもしれませんが僕はこれでやりたいんです」
 弘はうつむき加減にそう言った。
 自分の提案が弘に簡単に断られたせいか、マスターは一瞬悲しそうな表情をした。
「あれ……? マスターも演劇をやってた経験あるの?」
「高校時代に少しだけね。そうだ、あなたは結局参加するの?」