不意に痛んだ自分の胸は、何を思うのだろう。
もう、なにも考えたくないあたしは心に蓋をする。
「お嬢様、少しいいですか?」
適当に椅子に座って外の庭を眺めていれば、ドアをノックする音と共に山中の声が聞こえた。
「どうぞ」
「失礼します」
その声に適当に返事をすれば静かにドアが開き、さっきまでの黒服と違い白服に着替えた山中が入ってきた。
「何?」
「ケータイを、預りに参りました」
「は、ケータイ?
なんでよ」
「葵様や、寺島様のお嬢様に連絡されては困ると、旦那様からのお言葉ですので」
「………はいはい」
渡せばいいんでしょ、渡せば。
早く出せと言わんばかりに差し出された手のひらの上に、買い物の時に持って行っていた鞄からケータイを出す。
無いと思ったら、ここにもう運ばれてたのね。
財布や色んな物が入っているこの鞄がなかったら、どうしようかと思った。
「それと、これを」
「?なによ、これ」
渡したケータイと引き換えの様に渡された黒い箱。
大きくも、小さくもないその箱はあまり重みを感じない。
「旦那様からのものです」
山中からの返事を聞きながら箱を開けると、中には白いケータイが入っていた。
これを、使えということね。
「それには旦那様と、明日会うお嬢様の婚約者様の番号が入っています。
それと旦那様の会社の番号も入っています」
「その3つだけ?」
「はい。
なにか不便でもありましたか?」
「言っても、どうせ叶わないのだから何も言わないわよ。
それで?用はそれだけ?」
「あぁ、そうでしたね」
用は、ケータイと明日のことです。
「明日、服のこと?」
「よく、お分かりで。
明日、お着物を着ていただくので好きな色を聞こうと思いまして」
「……朱でお願い」
「了解いたしました。
あと、使用人は明日から来ます。
それと私は旦那様に呼ばれてしまったので、そちらに行って参ります」
では。
最後に執事の様に頭を下げた山中は細い目を三日月型に歪めて笑い、出て行った。
息苦しさを感じるのは、あの笑みのせいか。
それとも……。
閉じたドアから視線を外し、もう一度庭を見てみれば、茜色のような朱が庭の草木を照らしていた。
「………_ _ _ _、」
その朱を見て呟いた言葉は、自分でも信じがたいことで。
あたしが心に蓋をすると同時に消えてしまうことで。
(……今日は早く寝よう)
「おやすみ」
それは誰にも届くことなく、静かな見慣れた部屋の中に消えていった。
「初めまして、舞弥さん。
私は白神グループの白神 由梧(しらかみゆうご)です。
こっちは私の息子、絢梧(けんご)」
「...よろしくお願いします」
「...こちらこそ」
......息苦しいくらいに締められた帯。
痛いくらいに結われた髪。
濃く施された化粧。
...肌もお腹も苦しい状態で始まったのは、地獄のような沈黙。
ただ、唯一の救いは目の前に居る将来あたしの旦那になるであろう白神さんの顔が、想像していた以上に綺麗だったこと。
不細工だけは、少しだけでも拒否してやろうかと思った。
なんて、余裕でもないのに余裕のあるような考えを働かすあたし達の間にはなんともいえない空気が漂う。
「あ、初めまして。
嵐川コーポレーションの、嵐川 倭です。
こっちは、娘の舞弥。
それにしても、綺麗なお顔立ちですね」
「嵐川さんのお嬢さんほどでは、ないですがね」
じっと顔を見てくる絢梧さんの目から逸れたくて下を向くあたしの横で、媚び笑顔を振りまく父親。
まぁ、相手の父親も似たようなものなのだけど。
こうまでするのだから、よほど自分たちにはたくさんの利益があるのでしょうね?
娘息子そっちのけで、相手の会社褒めちぎって。
自分のことを褒めて欲しくて仕方のない子供にしか見えないわ。
はぁ、と気付かれないように溜め息をつく。
「それじゃあ、そろそろ若いのを2人きりで話しをさせてやりましょうか?」
「そうですねー。
私たちがいると、話しにくいでしょうし」
(あんた等が喋り倒してたからでしょう)
そう言って2人でそそくさと出て行くのを、見送ったあたしたちの間には、相変わらずの沈黙が続いていた。
「...あの、」
「...。」
「...。」
「...。」
「あの」
「...なんなんだよ」
あ、聞こえてた。
1回目の呼びかけで反応しなかったから、聞こえてないのかと。
「いや、よくあんな親に付き合っていられるものだなと」
「それを言うのなら、お前もだろ」
言っておくが、俺はお前とよろしくする気は無いぞ。
そう一言言った絢梧さんに安心する。
「あ?」
「え?」
「良かったってなんだよ」
「あれ、聞こえてたの?
良かったって言うのはそのままの通り。
あたしに結婚したいという気持ちは無いわ」
何言ってんだ、こいつ。
みたいな顔をする絢梧さん。
いや、だからね?
「貴方も、政略結婚でしょ?」
「...お前もなのか」
「えぇ。
だからしたくないのよ」
「はっ
そのわりにはえらく着飾っててきてるのな」
「これは無理矢理よ」
朱がいいと言ったのは、あたしだけど。
ここまでしてと言ったのは、どうせあの人でしょう。
「なぁ、」
「?何」
いつまでも締め付けたままの帯は時間が経っても苦しくて、そのせいかすごく話しにくい。
「お前のこと、なんて呼べばいい?」
「え、名前?なんで」
「...どうせ、俺らはどれだけ拒否をしあっても結婚させられるんだろ?
なら、名前くらい呼び合わないと可笑しいだろ」
「...確かに」
まぁあたしは勝手に絢梧さん、と呼んでるけど。
そう言われてみれば、そうかもしれない。
今、あたしの目の前に居るのは将来ずっとあたしの隣に居てくれる人であって...。
「...あたしのことは何とでも」
「分かった。
俺のこともなんとでも呼んでくれればいい」
「ありがとう」
「何も、感謝されるようなことはしてねえよ」
そう言って初めて笑顔を見せてくれた絢梧さんの顔は、なぜか直ぐに頭の中から消えていった。
…………_____。
「それでは、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。
今日の話は、あのまま進めていくということでいいですか?」
「それは、また今度に」
「それも、そうですね」
はははっ
楽しそうに笑う2人を横目で見る。
また今度、なんて馬鹿じゃないの?
そう思いながら見ていたあたしは、同じく呆れた目を向けていた絢梧と目が合う。
「おや、仲良くなったみたいですね。
若いですね」
「ははは、若いっていいですね」
「「(何が若い、だ))」」
目が合ったあたしたちを見て、見つめ合ってると思っているのだろうか。
そんなわけ、ないのに。
「では、また」
「はい」
車に乗りこんだ2人を見送るために、止まったまま動かない車の横に嵐川さんと並び、偽笑を浮かべる。
「また、たくさんお話してくださいね。
絢梧さん」
「...はい、こちらこそ」
スルスルと開いた窓から顔を覗かせた絢梧さんに、社交辞令同然の言葉を投げかけ笑えば、そんなあたしの様子に気付いた絢梧さんもあたしに笑いかけてくれた。
...嵐川さんと白神さんの前でもこういう会話をしているところを見せないと、駄目だろうし。
「...また、メールするから」
「うん...」
なんて思っていただけなのに、最後に絢梧さんに腕を引っ張られ、顔を寄せられたかと思えば耳元で呟かれた。
っ、わざわざ耳元で言わなくても、何も言わずにメールくらいしてくればいいのに。
それに、この角度だとあたし達がキスしているように見える。
「...ほら、車出すから離れなさい。絢梧」
「...。」
出せ。
その言葉と同時に動き出した車を呆然と見送る。
なんだったのだろう。
結局よく、分からない人だった。
年も、聞けなかったし。
ふと視線を感じて振り返れば、不機嫌そうな我が父があたしの方を見ていた。
え、なぜ。
「どうか、しましたか?」
「......いや、何もない」
ふん、と踵を返すその広く大きな背中はいつもと違って小さく弱々しく見えた。
何も無いって、お見合いをさせたのもあの人を選んだのも自分のくせに。
なんであたしが睨まれなきゃいけないのよ。
吐き出す空気を頬に溜めて、一気に外に出せば可笑しな音がした。
「...帰ろう、かな」
すぐ側に止まっているタクシーに乗り込み、道順を言っていく。
だって、住所を教えられていないから。
こんなだったら、聞いておけばよかった。
なら、こんな手間。
しないで済むことなのに。
だんだんと見えてきた自分の新しい大きすぎる家は、微かな明かりに灯されていた。
最近は、さらに日が落ちるのが早くなったなあ...。
それと同時に冷え込んでいく空気を思い出し、車から降りたくないような気持ちになる。
や、降りないといけないのだけれど。
だんだんとスピードを落としていくタクシーに、溜め息を吐く。
一体、今日何度目の溜め息なのだろうか。