「家にそれを感じるようになってから、教室にいても、誰かと話してても、自分の居場所がわからなくて。だから、人がめったに来ない屋上に自然とよく行くようになった。そしたらある日……」
先輩の頬が優しげに緩んで。
「君が俺を踏んだ」
まさか、ここで私の過去の失態がほじくり返されるとは予想もしてなくて、とっさに背筋を正してしまう。
「い、痛かったですよねっ。あの時は本当にごめんなさい」
今日のことといい、本当に私ってどんくさい。
踏まれるわ川に落とされるわ。
水樹先輩もいい迷惑だよ。
だけど、迷惑な素振りなんてまったく出さない水樹先輩。
今日までにしてきた私の失敗を全部、先輩は柔らかい笑顔で受け止めてくれた。
今だってそう。
目を細めて、口元に笑みを浮かべて。
「でもさ、踏んでくれて良かった」
こんな風に、また優しく……
って、ええっ!?
まさかのドM発言!?
SとMは紙一重だと聞いたことがあるけど、そういうことなんですか先輩!?
水樹先輩の言葉にどう対応していいのかわからずにキョドッていると……
「真奈ちゃんは、初対面の俺に嘘のない笑顔で接してくれた。そんな君の笑顔に、一瞬で癒されたんだ」
先輩は柔らかい表情のまま、続けて言葉を紡ぐ。
「だから、君がいるところなら、俺にとってそこは居心地のいい場所なんだよ」
それは、私にとって極上スイーツのような甘い言葉。
ともすれば、恋人に囁くようなセリフに、鼓動がうるさいくらいに高鳴る。
こんなの勘違いしない方がおかしい。
だけど、告白されたわけじゃない。
水樹先輩を好きだから変に脳内変換してしまうだけだ。
先輩をなんとも思ってない人が聞いたら、恋や愛に結び付けたりはしないはず。
私は平常心を取り戻そうと静かに、けれど深く大きく息を吸って吐いてから。
「あの、先輩? 前から思ってたんですけど」
「うん?」
「そんな言い方すると、女の子たちは勘違いしちゃうので気をつけた方がいいですよ?」
小さな子を叱るような声色で言うと、水樹先輩は優しい笑みを深め「大丈夫」と告げてから……
「真奈ちゃんにしか言わないから」
楽しげに、唇を弓なりにした。
水樹先輩。
あなたのリップサービスのせいで
クーラーの効きが悪いです。
学園の校舎に設置されている時計が12時30分を過ぎると、その人は生徒会室にやってきた。
「すみません、急にお願いして」
会長の声に、その人は「いやいや、いいよいいよ」と言いながら、椅子に腰を下ろす。
この、もじゃもじゃ頭がトレードマークな人は、瑚玉学園の教師で、先週、三重野先輩が話していた古典の日長先生だ。
「それで、神隠し……だったかな?」
ここに来る前に会長か副会長が話してあったのか、先生は私たちが頷くと、低く落ち着きのある声でさっそく本題に入った。
「僕が知ってるのは、神隠しとはまた違うかもしれないけど、構わないかな?」
その問いかけに三重野先輩が頷いて、構いませんのでお願いしますと促す。
日長先生は首を縦に振ると、その頃の事を思い出しているのか、視線を上向かせた。
「10年くらい前だったかな。当時、僕が担当してたクラスの男子生徒が"彼女を探してくれ"って騒いでたんだよ」
「んーと……付き合っている子、ということですか?」
赤名君の質問に、先生は頷いて肯定する。
「でもね、名前を聞いても、周りの友達はみんな、そんな子はこのクラスにも他のクラスにもいないって話になってね。夢でも見たんじゃないかと笑われてた」
……こ、れ……これって。
『……みずき先輩って、誰?』
『書記って……書記は、あなた1人だけでしょう?』
ドクン、ドクンと嫌な音を立てて心臓が騒ぎ出す。
「それでも、彼は本当に必死な顔をしてたし、途方にもくれてた」
先生の話は、まるでそのままだ。
覚えのある……
あの嫌な状況と。
「だけど、そんな姿も1週間ほど経った頃にはなくなって、普段どおりの彼に戻ってたよ」
知らない間に握り締めていた手は、じっとりと汗をかいていた。
チラリと水樹先輩の様子を伺うけど、先生の話にはあまり興味がないのか、水樹先輩はこちらに背を向け扇風機の前で涼んでいる。
「客観的に見てた僕は、なんだかそれが気持ち悪くてね。しばらくしてから彼に"彼女"のことを聞いてみたけど……」
"いた気がするけど、気のせいだったみたいです"
男子生徒はその後、自分はどうかしてたと笑ってたそうだ。
日長先生が語った男子生徒の言葉に、私の胸が不安で潰れそうになる。
なんなの、これ。
あれがただの夢ではなく、意味があるのかもとは思ってた。
だけど、これだけ同じだと……
意味があるだけではない、何かがある気がしてしまう。
今
私に
何が起こってるの?
「当時、生徒たちも神隠しじゃないかと噂してたけど、なんせ存在してないからなんともなぁ」
先生が苦笑いを漏らすと、会長がスマホを取り出した。
「その男子生徒の名前と連絡先ってかわかりますか?」
「わかるけど、知ってどうするんだい?」
「直接会って、覚えてる事があれば知りたくて」
「うーん……何の為に?」
日長先生が眉をひそめて首を傾けた。
すると、赤名君が身を乗り出して。
「もちろん、学園の平和の為ですっ」
ガッツポーズと共に口にすると、先生はハハッと笑う。
「学園の平和ねぇ。まあ、彼なら優しい子だし大丈夫だろう。実家の連絡先のみになるけど、いいかな?」
「はい! ありがとうございますっ」
会長が爽やかな笑顔でお礼を告げれば、日長先生は男子生徒の名前だけ教えてくれて、あとは職員室に戻ってから調べると言って生徒会室を出た。
連絡先は会長が帰りに確認しに行くことに決まり、この日は解散となった。
陽が傾きかけた屋上は、昼間の熱を溜め込んでいるせいかムワッとしていて暑い。
そんな中、私は1人、色を変え始めた空を見上げて溜め息を吐いた。
生徒会のみんなはとっくに帰っている。
けれど私は、適当に理由をつけて学校に残っていた。
先生の話が頭の中をぐるぐると回っていて帰る気になれなかったのだ。
彼女を探していたという男子生徒の話は、気味が悪いほどに記憶にある光景と同じで不安になる。
先輩が消えて。
必死に探して。
自分の携帯からもその存在が消えかけていった。
そして……
先輩の背中を追った先が、この屋上。
私は、頭の中に残っている記憶の糸を必死に手繰り寄せる。
ここに来た時、先輩は……
そう、先輩の姿はなかった。
それから、私は……
確か、考えた。
いないはずはないって。
階段を上がる先輩の姿は見たし、その先には屋上しかないんだって……
そんな風に考えた……気がする。
その後は?
どうしたんだっけ。
先輩の姿を見つけた?
そこで目が覚めた?
何かが掴めそうで掴めないような感覚に自然と顔が強張っていく。
──不意に、力強い夏の風が吹いて。
その風の音に紛れるように……
「あぶないよ」
突然の、水樹先輩の声。
驚いて勢い良く振り返ると、水樹先輩はドアの前に立って私を見つめていた。
「水樹先輩……まだ、残ってたんですね」