サイクリング用のヘルメットをかぶり、ロードサイクル用の自転車の横に立つさやかさんの姿に、なんの違和感もなかった。なんの戸惑いも見せず落ち着いて話すさやかさんを、華子さんは冷たく突き放した。


「それは、退院してからゆっくり行ってもらえますか?」


私は数歩、さやかさんに歩み寄った。さやかさんの本心が知りたくて、質問せずにいられなかったからだ。


「さやかさん。
病院の生活は窮屈(きゅうくつ)ですか?」


さやかさんはまっすぐに私を見つめた。そのアーモンド形の目に引き込まれそうになり、思わず目線を反らした。


「そうね、莉栖花ちゃん。
病院の中は囲まれていて、そりゃあ窮屈かもしれない。

でもね、じゃあ、莉栖花ちゃんはどう?
こっちの生活は何でも思い通りになってる?
窮屈で息もつまる事はない?」


学校での自分を思い浮かべて、返事もできなかった。さやかさんに質問する資格などないことを自覚し、私は足元を見ながら下唇を強く噛んだ。


「そうね、私は……
こっちで働いてる時の方がずっと窮屈だったわ。
入院している時より、何倍も窮屈だった」


さやかさんの口調は、さみし気だ。美しく、社会的地位もある完璧な人間に、不釣合いな弱音。そんな言葉を吐くさやかさんが消え去ってしまいそうで、私はもう一度、彼女の顔を見た。

さやかさんはヘルメットを脱ぐと、大きく頭を回した。その姿は点滅する蛍光灯の下、コマ送りの映像のように映し出され、最後は彼女の怖いほどに美しい顔で静止した。


「毎日、毎日、毎日。
次々と患者はやってきて、早く病気を治せと迫る。
たったこれだけのデーターで診断くだせと………さっさと指示だせと看護師は急かす。
休みの日も電話がきて、お前の判断は間違ってたんじゃないかと責任を問う。

何人の……何百人の命を助けても、たった一度の判断ミスで私の全てが消し去られるのよ。

私はね、ただのちっぽけな人間なの。
なんの特別なこともない。
普通の女なのよ」


さやかさんの美しい顔が歪む。私に向けられた視線は、痛いほど鬼気迫っていた。

私の背中には冷たい汗が伝(つた)った。蒸し暑さが理由ではない汗が。