「母さん」

大川さんは薄く開けられた目を、ハンカチで目頭を押さえる奥様に向けた。大川さんの口元には優しい笑みが浮かぶ。


家族愛溢れるドラマの予感。とても自然な感動シーンに合わせたのか建物内にオルゴールのBGМが流れた。できすぎでしょ、と突っ込む余地も与えない。


「俺はお前と結婚できて幸せだったよ」


言い古されたセリフもこういう場面では必要不可欠。事実、奥様はいたく感動しているらしく、流れる涙の量が倍増している。


「私もよーーー」

最後の『よーー』にビブラートがきいている。


「本当に、本当に心からお前のことを、あっ…あ……愛して…ていた」

こんなくさいセリフを言う機会、人生にそうそうあるものではない。大川さんも言いなれない言葉に緊張しているのか、大事なセリフをかんでしまった。


「本当だよ。
幸子!!」


大川さんの決め台詞に合わせたかのように、館内を流れていたBGМが止まった。


そしてなぜだか、観客達は同時に顔を上げ動かなくなった。静止画のように、涙さえ流れ落ちるのを止めた。参列者の呼吸音も聞こえなくなる。


空気を読めない酸素ボンベだけが、シューシューと酸素を送る音を鳴らし続けた。



このドラマの主人公が一番大事な所でミスしたと、奥様の怒号で分かった。


「あなた!!
幸子って誰なのよ。
私は良子よ。
ねえ、あなた。
幸子って……
幸子ってまさか、10年前に電話よこしたあの女。
まさか、あなた、あの女とまだ別れてなかったの?
ちょっと、はっきり言いなさいよ!
あなた」


奥様はこれでもかと言わんばかりに大川さんに顔を近づけ、鼓膜が破れるのではと心配になるほどのキンキン声を上げた。


大川さんは耳を押さえる代わりに胸を押さえ「うっ……うううぅぅぅ」と悶え苦しみ出す。


ここまで来ると、さすがに観客の視線も冷たいものに変わる。感動の家族ドラマは、コメディーだったと気づいたのだろう。


「大川さーん、苦しいですかーー?
とりあえず、控え室に戻って処置しましょうねー」

と、棒読みする華子さんのセリフを深読みする人もいず、ただ、表情のない顔で見守った。



華子さんに呼ばれ、私は観客に細かく会釈しながら控え室に一緒に入っていった。