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「ただいまー。
莉栖花ーーー。
莉栖花、いるのか?」
玄関から響くお父さんの声が、予定外の睡眠を貪(むさぼ)っていた私をリアルの世界に呼び戻した。
壁掛け時計の短い針は、重力に負けたように下を指している。昼ごはんも食べず夕方になってしまったらしい。
「おかえりなさーーい」
慌てて跳ね起き、階段を駆け降りた。
リビングにはソファーの背もたれに手をつき腰を曲げて立つお母さんがいた。それでも、病院に行く前よりは表情も良く、なんとか自分で動けるようだ。
「お母さん、大丈夫?」
お母さんをのぞきこむ表情は、断じて演技ではない。心からの心配。
「ありがとう。
うん、大丈夫よ。
今は薬、効いてるからね」
なんてお母さんは強がっているが、眉間には三本シワが寄っている。
「やっぱり、ぎっくり?」
「うん、そう。
これで3回目。
まっ、この仕事の職業病だからね」
頼りない笑顔を作るお母さんを、隣りに立つお父さんが促した。
「とりあえず寝てろ」
お母さんは顔をゆがめ、魔法使いのおばあさんのように背中を丸めて寝室に消えていった。
二人っきりになると、親子の間には異様な空気が漂った。その空気の原因を説明するように、お父さんは滑舌(かつぜつ)よく話し出した。
「全治1カ月だそうだ。
とりあえずは安静第一だからな。
見てわかるだろう。
ひと月は仕事できないんだ」
話の内容と言い方に、風向きがあやしくなった事を感じ取れる。私はそおっと自分の部屋へ逃げようとしたが、お父さんはたたみかけるように言葉を続け逃さなかった。
「そこでだ、莉栖花。
お前、明日から夏休みだったな。
丁度いい。
明日からお父さんの仕事、
手伝ってくれ」
「ええぇーー?!!」
そうきたか。
家事手伝ってと言われるかとは予測していたけど。
私の父、多部健吾(タベ ケンゴ)は介護タクシーの運転手をしている。
介護タクシーというのは、普通のタクシーには乗れないようなケガや病気を持っているお客さまを運ぶタクシーのこと。
個人で独立して2年。
『多部ハッピータクシー』と書かれた中古のワンボックスカーに、車いすや車輪つきベッドを乗せ、街中を走りまわる。
普通は運転手独りで全ての仕事をするのだが、うちのお父さんは不器用なのでお母さんも一緒に乗って手伝っている。
お客様は入院中の患者さんやご高齢者といった、さしてハッピーではない方々がほとんど。その一方、運転手であるお父さんは仲良く助手席にお母さんを乗せて、会社名を地で行ってるのだから、娘から見たら正直気持ちが悪い。
そのお母さんの代役をしろいうお父さんの理不尽な要求に、ぞっとする。
私は水を掛けられた猫のように、ぶるっと身震いした。