あんぐりと口を開けたまま全ての言葉を失っていた華子さんは、やっとの思いで話し出した。


「あのー、何か行き違いがあったようなんですけれども、ええっと……私は、動物の看護師ではありませんで……人間の看護師なん……」


「じゃあ、この紙にタマミさんの情報とスケジュールが書いてありますから、この通りにお願いしますね」


華子さんの説明を完全に無視し、奥様は持っていた用紙を華子さんに押しつけた。けれども華子さんは、その用紙を見る余裕さえない。確認第一という看護の基本を、完全に放棄している。


二人の様子を見る私は内心、愉快だった。こんなに困惑する華子さんを見るのは初めてだ。そんな本心を悟られないよう、両眉を下げ同情した表情を作った。


「ほら、早くしろ!」

再び玄関から怒号が轟(とどろ)いた。奥様は玄関の方を見返り、恨めしそうに返事した。


「ねえ、あなた。
私、本当に行かなきゃならないのかしら。
通夜にちょっと顔出すだけじゃだめ?」


顔の見えないこの家の主は、苛立ちをつのらせ、長年の恨みをはらすように玄関でのたまった。


「馬鹿なこと言うな!!
俺の母親の葬儀だぞ。
長男の嫁が出ないわけにいかないだろうが。

だいたい、今までだって施設に入れっぱなしで何にもしてこなかったんだから。
なんかっていうと、猫が…猫がって。
最後ぐらいちゃんと、送らなきゃなんないだろうが」


残念ながら、顔を見ては言えないらしい。飼犬の遠吠えにしか聞こえないご主人の愚痴を奥様はさらっと流し、タマミさんのノドをなでた。


「だって、私はタマミさんの世話で忙しかったし……
タマミさん、置いていくの心配だわ。
お母様は亡くなられてるけど、タマミさんは生きているのよ」


「だから、わざわざ派遣会社から看護師さんに来てもらったんだろ。
とにかく、今日は夕方まで葬儀場にいろ!」


語気を荒げるご主人に、顔が見えないのをいいことに奥様はイーと歯をむき出した。そして、抱いていたタマミさんをそっとソファーの上に降ろすと、両手で華子さんの手を包み込むように握った。


「看護師さん、本当に、本当にお願いしますね。
5時には絶対戻ります。
ここに、タマミさんのお世話をする道具が全部置いてありますから」


奥様の視線の先には、テーブルの上に置かれた紙袋があったが、その中身は想像もつかない。